16.いつかからの変化
屋台の料理は、見た目よりもしっかりと味がついていた。
薄く焼かれた生地の中には香辛料を効かせた肉と炒めた野菜が包まれており、噛むたびに肉汁と少し刺激のある香りが広がる。
「……美味しい」
思わず零れた言葉に、調子を取り戻してきたセオドアが嬉しそうに笑った。
「でしょ? ここの店、昔から美味しいんだ」
「よく来るんですか?」
「街に出るときはたまに。蓮なんて三つも食べるんだよ」
「レン様、よく食べるんですね」
「そしてエレノアが一口ちょうだいって言って半分くらい食べて怒られてる」
「聞いていません」
この人たち、本当に一貫している。怒るレンとおちょくるエレノアの姿が簡単に想像ついた。
その後も市場を歩きながら、セオドアはいくつかの設備を説明してくれた。
食品を低温で保存するための魔法具。
夜に道を照らす魔法灯。
火災が起きた際、周囲へ即座に知らせる警報装置。
どれも単体で見れば小さな仕組みだが、それらが積み重なることで王都の生活を支えている。
「この冷却装置は、エレノア様が改良したと言っていた保存魔法とは違うんですか?」
生鮮食品が売られている店先に設置された魔法石を指さす。
「全然違うよ。エレノアの術式は性能が良すぎるからね。あれを一般向けにしたら作るのも維持するのも高すぎるから」
「高性能なら良いというわけではないんですね」
「必要以上の性能はただの無駄だからね」
その言葉を受けて、フェリシアは無言でセオドアを見る。
「どうしたの?」
「いえ、殿下がそれを言うんだなと思いまして」
「何の話?」
セオドアは不思議そうに瞬いている。本当に分かっていないようだ。
「贈り物です。数といい質といい、あれこそ必要以上というものですよ」
「……それは別問題じゃない? それに、フェリシア嬢が相手ならあれでも霞むというか——」
「同じです」
即答すると、セオドアは納得できないという顔をした。フェリシアのことになると本当に基準がおかしい。
そんな会話をしながら歩いていると、徐々に人の数が増えてきた。昼が近いからだろう。
中央市場へ向かう人々と、買い物を終えて帰る者が入り混じり、先ほどまでよりも明らかに歩きにくい。
「フェリシア嬢、こっち」
セオドアが人を避けながら道の端へ寄る。
フェリシアも続こうとしたが、ちょうど二人の間を大きな荷物を抱えた男が横切った。
「すみません!」
「いえ——」
返事をしたときには、セオドアとの間に数人分の距離ができていた。
見失うほどではない。だが、フェリシアが人波の隙間を縫って進もうとしたところで、セオドアがこちらへ戻ってきた。
「大丈夫?」
「はい、このくらいなら」
そう答えると、セオドアはわずかに考え込む。そして、おもむろに手を差し出した。
「手、繋いでもいい?」
フェリシアは差し出された手を見つめる。
城を出る前にも同じように手を差し出されたが、あの時は婚約者という設定を提案されたので即座に断った。
だが今は違う。人が多いから、はぐれないためという明確な理由があった。
それに、セオドアは勝手に手を取らず、きちんとフェリシアの意思を聞いている。
「……人混みなので、はぐれたら困りますからね」
「うん」
「……それだけですからね」
「分かってるよ」
絶対に分かっていない笑顔である。
しかしフェリシアはそれ以上何も言わず、差し出された手へ自分の手を重ねた。
すぐに指を絡められそうな気がして身構えたが、セオドアは普通に手を握るだけだった。少し意外である。
「どうかした?」
「……いえ」
「ああ、もしかしてもっと恋人っぽい繋ぎ方の方が——」
「離しますよ」
「すみませんでした」
謝罪までが異様に早い。
フェリシアはため息を吐いたが、手を離すことはしなかった。
城ではエスコートされる際に何度か手に触れたことはあったが、それはあくまで手に手を軽く乗せる程度のことだ。しっかりと手を握るのはこれが初めてかもしれない。
セオドアは剣を握るからか、指の付け根には薄く硬い部分がある。
完璧な王太子。国一番の剣士。優秀な魔法士。
そういう肩書きばかり聞いてきたが、触れてみれば当然ながら一人の人間の手だった。
「フェリシア嬢の手、柔らかいね。大切にされてきた人の手だ」
セオドアの瞳はやけに優しい。まるで、そうではなかった人を知っているかのように。
「殿下の手は硬いですね」
「剣を握っているからね」
「ずっと、ですか?」
「……うん。ずっと昔から」
またこの言葉だ。レンやエレノアとの関係を聞いた時も同じ答えをした。
具体的な時期を聞けば、また曖昧に笑って誤魔化されるのだろう。
フェリシアは握られた手へ少しだけ視線を落とし、だがそれ以上は聞かなかった。
「いつかは話してくださいね」
今は聞かない代わりに、将来の約束を。
「殿下が話せると思ったときで構いませんから。昔のこと」
「……いいの? 聞かなくて」
「気にはなりますよ。でも、無理矢理聞いたって意味がありませんから」
セオドアはしばらく何も言わなかった。
人の声と足音が絶え間なく流れる中、ただフェリシアだけを見つめている。
「……ありがとう」
やがて返ってきた声は、普段よりもずっと小さかった。
また一瞬だけ、知らないセオドアを見たような気がする。
「その代わり、いつかは話してくださいね」
「うん。約束する」
セオドアの手に、ほんの少しだけ力が加わった。決して強くはない、確かめるような握り方だ。
そのまま二人で歩き始める。
先ほどまでより人通りはさらに増えていた。前から来た子供たちの集団を避けるため、フェリシアはセオドアの方へ少しだけ寄る。
すると、子供たちがじゃれ合ってこちらへと飛び出してくる。
「っ」
ぶつかるほどではない。だが、反射的に身体を引いた瞬間、繋いでいた手に力が入った。
セオドアがすぐにフェリシアを自分の方へ引き寄せる。
「大丈夫?」
「はい。すみません」
「謝ることじゃないよ。むしろ役得」
台無しである。
満足げに笑うセオドアへと呆れを含んだ視線を向けながら、再び歩き始めようとしてフェリシアはふと気づく。
先ほどまでと違い、セオドアの手を自分からしっかりと握っていた。
「……」
もう危険はないし、はぐれそうになっているわけでもない。繋いだ手の力は今まで通りに緩めればいい。
だが同時に、緩める理由もないと思ってしまう自分がいた。
「フェリシア嬢?」
セオドアも気づいたらしい。しかし珍しく何も言わない。
ちらりと横を見ると、セオドアは前を向いたまま口元だけがどうしようもなく緩んでいた。
「……何も言わないんですね」
「言ったら離すでしょ?」
「分かっているのなら賢明です」
「まあね。俺も学習したから」
妙に誇らしげである。
フェリシアは呆れながらも前へ視線を戻した。
手に込めた力は、そのままにして。
「次はどこに行くんですか?」
「市場を抜けたところに、建物が動く場所があるよ。その後は昼食にしようか」
「さっき食べたばかりじゃないですか、セオドア」
「っ……」
握られていた手がびくりと震えた。
「まだ駄目なんですか?」
「一生慣れないかもしれない……」
情けない声を漏らすセオドアに、フェリシアはとうとう耐えきれずに小さく笑った。
どうやら、意趣返しは成功したようだ。




