12.箸というもの
楽しそうに笑っているセオドアに、フェリシアは小さくため息を吐きながらその手元へと視線を向ける。
「ところで、先ほどから気になっていたのですが、殿下の持っているその棒のようなものは何ですか?」
「箸だよ。東の国で使われているカトラリーの一つ。フェリシア嬢も使ってみる?」
初めからフェリシアにも箸を試してもらうつもりだったのか、セオドアはフェリシアのそばに置いてあった一膳の箸を指さす。
フェリシアも用意されていた箸を手に取ってみる。セオドアの持ち方を参考にしてみるが、どこか違う気がする。
「下の一本は薬指に乗せて、そのまま動かさないで。人差し指と中指を使って、上の箸だけを動かすんだ」
セオドアが実演する。
細長い二本の棒という単純な道具なのに、セオドアは器用に刺身を挟んでいた。
先ほどから当然のように使っているが、フェリシアには馴染みのない体験だ。真似してみるが、上手くいかない。刺身をつまむどころか、そもそも上の箸と下の箸がずれてしまう。
「……難しいですね」
「初めてならそんなものだよ。エレノアなんて使うのを諦めていたからね」
「殿下は最初から使えたんですか?」
「……いや」
一瞬だけ間があった。
「俺も最初は苦労したよ。でも、慣れれば箸が一番楽かな」
セオドアはどこか懐かしそうに箸を眺めている。
恐らくまた、フェリシアの知らない過去に関わることなのだろう。
だが今は無理に聞くことではない。フェリシアは再び箸と向き合う。
箸で刺身を挟もうとする。だが滑った。もう一度やってみると、今度は掴めたが、持ち上げようとして滑り落ちてしまった。
「惜しい」
フェリシアを見つめるセオドアの口元が緩んでいる。
「笑ってません?」
「可愛くって」
「そういうのはいいですから。笑ってないで教えてくださいよ」
もう一度挑戦してみるが、やはり上手くいかない。
フェリシアは思わず眉根を寄せた。
刺繍ならばもっと細かい作業をしているというのに、なぜたった二本の棒を操るだけでここまで苦戦しているのだろう。
するとセオドアは立ち上がり、フェリシアの横へと回った。
「触れても?」
セオドアが尋ねる。
顔を上げると、セオドアにはいつものような勢いはなく、ただ確認するようにフェリシアを見ていた。
「持ち方を直すだけ。嫌なら口で説明するよ」
思わずフェリシアは瞬いた。
今までなら、頬へ触れるのも手の甲へ口づけるのも、セオドアは自然に行っていた。
もちろん、フェリシアが嫌だと言えば止まる。だが、こうして事前に聞かれたのは初めてかもしれない。
フェリシアは自分の手元を見下ろす。このままでは、いつまで経っても箸を使えるようになる気がしない。
それに、そもそも笑っていないで教えてくれと言ったのは自分だ。
「……箸の持ち方だけですよ」
「うん」
返事はやけに早かった。
セオドアの指がフェリシアの指へと触れた。親指の位置を直し、薬指へと箸を乗せる。
「下はこれで固定して。上はここと、ここで持つ」
長い指が、フェリシアの指を一本ずつ動かしていく。
近い。とにかく近い。
ほんの少し顔を横に向ければ、すぐそこにセオドアがいる。
改めて見ると、非常に美形だ。フェリシアの手元に集中しているセオドアの横顔は真剣で、どこからどう見ても理想の王子様である。普段の狂った言動を一身に受ける身としては、見惚れるよりも先に、どうしてこの王子様がこうなってしまったんだろうという残念な気持ちになるだけだが。
「それで、人差し指と中指を動かして——」
また少しだけ距離が近づいた。
「殿下、近くないですか?」
「……教えるにはこれくらい必要かなって」
答えながら、セオドアの頬がわずかに赤らんだ。
意図的ではないようだ。少なくとも、半分くらいは本当に箸を教えることしか考えていなかったのだろう。
とはいえ、ここで距離を取るような男ではなかった。
「嫌?」
「嫌ではありませんけど」
言ってから、しまったと思った。確実に面倒なことになる。
やはりというべきか、セオドアの動きが止まった。
「……今の瞬間を保存したい」
「やめてください。エレノア様のようなことをおっしゃらないでくださいよ」
「記録はしない。記憶に永久保存する」
目が本気である。
「記憶なら勝手にしてください。でも絶対にそこまでするほどのものではありませんよ」
「許可は出たと解釈するね。一生覚えてる」
「……」
たかだか近い距離を許しただけである。
だがセオドアにとってはそうではないらしいが。
やけに上機嫌になったセオドアは再びフェリシアの指へと意識を戻した。
「ほら、これで動かしてみて」
「こうですか?」
セオドアの補助を受けながらの状態ではあるが、先ほどよりも自然に箸先が動いた。
「そう。かなり良くなったね」
セオドアが手を離す。
冷たい空気が流れ込んできた。失われた温度を意識してしまった自分には気付かないふりをして、フェリシアは箸を動かす。
「では、もう一度」
先ほどフェリシアから逃げ続けた白身魚へと箸を伸ばす。
まだ一人だとおぼつかない手付きで、だが慎重に挟んで持ち上げた。
「……取れました」
「取れたね。うん、すごいよ」
白身魚を持ち上げたまま、思わず笑みが浮かんだ。
セオドアも笑っている。まるで自分のことのように嬉しそうだ。この男のことだ、フェリシアよりも喜んでいるかもしれない。
そのまま刺身を醤油に付けて口へ運ぶ。フォークで食べたときと味は変わらないはずだが、達成感の分だけ美味しく感じた。
それからフェリシアは箸の練習をしながらいくつかの刺身を試した。
淡泊な白身。脂の乗った赤身。海の魔物だというクラーケンの白い肉にはさすがに驚いたが、恐る恐る口にしてみれば存外悪くなかった。
「初めての刺身はどうだった?」
「美味しかったです。思っていたよりずっと食べやすくて、私、わりと好きかもしれません」
ぱっと、分かりやすくセオドアの表情が明るくなる。
「じゃあ次はもっとたくさん用意しようか」
「やめてください。というか、もう次が決まっているんですか?」
「フェリシア嬢が嫌じゃなければ」
そう言われると、断る理由は思い当たらない。
むしろ、今日の食事は思っていた以上に楽しかった。
未知の料理。セオドアが一つひとつ解説してくれた。箸の使い方も教わって、初めて刺身が掴めたときは二人で喜んだ。
こうしていると、初対面で二回の結婚を申し込んできた王太子と同一人物とは思えない。
「……また食べたいです」
フェリシアが答える。
「本当? じゃあ次は今より——」
「さっきやめてくださいって言いましたよね。今日と同じ量でお願いします」
「……」
「殿下」
「……はい」
渋々だがセオドアは頷いた。
危ないところだった。少しでも気を抜けば、次は三卓分ほどの刺身が並びそうである。
フェリシアは小さく息を吐いて、もう一度箸を手に取ってみる。刺身はもうないが、教わったことの復習だ。
「そろそろ箸使いも板についてきたね」
「今はまだ集中しないと難しいですけどね。でも、慣れたら便利そうです」
「でしょ?」
セオドアは満足そうに頷くとおもむろに立ち上がり、備え付けの棚へと向かう。
「殿下?」
「少し待ってて」
セオドアは棚の中から細長い一つの包みを取り出した。丁寧に梱包されたそれはどこからどう見ても贈り物である。
成長したと思っていた。多少は加減を覚えたと。だが、フェリシアの思い違いだったようだ。天を仰ぎたい気持ちを必死に抑える。
「……何ですか、それ」
「今日の記念にと思ってね。職人に箸を作らせたから、よかったら使って」
差し出された小さな箱にはおそらく一組の箸しか入っていない。しかし、十中八九、最高級の品質のものである。
「……ありがとうございます。でも、これ以上の贈り物は不要ですからね」
「自分の稼ぎから出してるから問題ないよ」
そういう問題ではない。資金面の心配をしているのではないと、心の底から叫びたい。だが、箸を教えてもらったところからの上機嫌がいまだ続いている男には、何を言っても無駄な気がした。
なお、フェリシアは知らない。箸を贈るという行為に、どんな意味があるのか。
箸は二本で一膳となる。どちらか一方が欠けると使えないことから、支え合う夫婦やパートナーの姿になぞらえられる。
セオドアがそれを知って贈ったのか、知らずに贈ったのかは分からない。
ただ、蓮ならこう言うだろう——あいつはやけに豆知識に詳しいぞ、と。




