11.ついにたどり着いた刺身
「待てエレノア!」
「やーだよーだ!」
廊下の先から二人の声が響く。セオドアの実力をもってしてもそう簡単には捕まえられないらしい。
「セオドアだって記録ほしいでしょ?」
「……そんなわけあるか! さっさと消せ!」
「今ちょっと迷ったよね?」
フェリシアは顔を覆ったまま固まった。
万が一、セオドアがエレノアの口車に乗せられたら非常に困る。あの記録が一生残されることになってしまう。
「……帰ろうかしら」
本気でそう思った。
だが、ここまで来るために馬車が改造されたのである。フェリシア自身も刺身を楽しみにしていた。何より、ここで帰ったところで記録用水晶が消えるわけではない。
詰んではいないだろうか、これ。帰っても帰らなくても地獄である。
フェリシアが絶望している間にも、二人の声は遠ざかったり近づいたりとせわしない。
「セオドアにも複製あげるから見逃してよー」
「いらない!」
「うっそだあ」
「少なくとも盗撮したものはいらない!」
よかった。セオドアはフェリシア側だ。エレノアに懐柔されることはなさそうである。
そう思ったところで、エレノアの矛先が変わった。遠くから紅い瞳が弧を描いてこちらを見つめている。
「じゃあフェリシアにあげよう!」
「もっと駄目だ!」
「いりません!」
思わず大声が出た。
一瞬、廊下が静まり返る。セオドアもエレノアも追いかけっこを中断している。
そして次の瞬間。
「あっははははは!」
エレノアの楽しそうな笑い声が響いた。
「フェリシア最高!」
「エレノア!」
再び追いかけっこが始まった。もう好きにしてほしい。
諦めの境地に至ったフェリシアはしゃがみこんだまま深くため息をついた。
しばらくして、廊下の奥から一人の足音が近づいてくる。
「フェリシア嬢」
フェリシアは恐る恐る顔を上げる。
戻ってきたセオドアは髪も服も乱れておらず、一見すればいつも通りの完璧な王太子だった。
ただし、その手には砕けた水晶が握られている。
「……エレノア様は?」
「逃げられた。でも安心して、この通り破壊してきたから」
セオドアは申し訳なさそうに眉を下げると、フェリシアの前へとしゃがみこんだ。
「ごめんね。まさか記録してるとは思わなくて」
「殿下が謝ることではありませんよ」
むしろ全力で止めようとしてくれた。
「ただ」
「うん」
「殿下、途中で揺れてませんでしたか?」
「……まさか」
セオドアの表情は変わらない。だが一瞬の間があった。
「本当ですか?」
「……だってフェリシア嬢が俺の贈った髪留めを着けて、気に入ったって言ってくれた瞬間だよ? 本音を言えば記録しておきたい」
「殿下」
「……すみませんでした。やりません」
意外にもあっさり折れた。
セオドアは名残惜しそうではあるものの、それ以上食い下がることはしない。
こういうところを見ると、やはりフェリシアが嫌だと言ったことについてはきちんと聞いてくれるようだ。
「とにかく」
小さく咳ばらいをして、セオドアは立ち上がるとフェリシアへと手を差し出す。
「エレノアについては解決したし、今度こそ行こうか。刺身、楽しみにしてくれていたんだよね」
「はい。とても楽しみです」
その言葉だけでセオドアの頬が緩んだ。
本当に分かりやすい、と思いながらフェリシアは差し出された手を取る。
そして案内されたのは以前と同じ部屋だった。
セオドアが扉を開く。
「……すごい」
フェリシアは足を止めた。
様相は前と変化している。大きすぎない円卓の上に、見慣れない料理が美しく並べられていた。
赤、白、淡い桃色。色味の濃いものから、透き通った淡いものまである。
薄く切られた魚肉がそれぞれ違う皿へと盛られ、その横には見たことのない調味料や薬味が添えられていた。
数は多い。
多いが、以前の贈り物や、この部屋にある茶葉の山ほどではない。
「殿下、本当に成長なさったんですね……」
「それ、褒めてる?」
「ええ、量が普通になったので。喜ばしいことですよ」
「……褒められている気がしないな」
セオドアは苦笑しながら椅子を引く。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
フェリシアが腰かけると、セオドアも向かいへと座った。
「一応、初めてでも食べやすいものを中心に選んだよ。これは白身で、癖が少ない。こっちは脂が多め。これは少し歯ごたえがあるかな」
セオドアが刺身を順に指差していく。
その言葉には淀みがない。本当に刺身が好きなのだろう。
「まずはこれから食べてみて」
勧められたのは、透き通るような白身魚だった。
フェリシアは小さなフォークを手に取る。
「この黒い液体は?」
「醤油っていう東の国の調味料。少しだけつけて食べるといいよ」
言われた通り、ほんの少しだけつけて口へと運ぶ。
「……」
柔らかい。
想像していたような生臭さはほとんどない。
淡泊な味だが、噛むほどに魚特有の旨味が口の中へ広がっていく。醤油の塩気もよく合っていた。
「どう?」
セオドアが身を乗り出している。
刺身ではなく、完全にフェリシアだけを見ていた。
「美味しいです」
素直に答えると、セオドアの顔が一気に明るくなった。
「良かった。それなら次はこれもどう?」
セオドアは見慣れない二本の棒で器用に淡い桃色の刺身を挟んで、フェリシアの方へと向けている。
その棒はなんだと言いたいが、それよりも。
「殿下。私は自分で食べられます」
「フェリシア嬢の手を煩わせるわけにはいかないから」
「結構です。その手を下してください」
フェリシアがぴしゃりと言い放つと、セオドアの手は素直に下ろされた。
だが楽しそうな笑みはそのままだ。まだ決して油断はできなかった。
***
遠く離れた、廃墟と化した神殿。
エレノアは一人、水晶を棚へと置いた。
「よしよし、これでまた一個」
周囲には同じような記録用水晶が数え切れないほど並んでいる。古いものも、新しいものも。
セオドアが壊したのは一つだけだ。もちろん、それだけで終わるわけがない。前にレンによって壊されたのもそうだ。
エレノアは新しく加わった水晶を眺め、楽しそうに笑った。
「保存用、鑑賞用、予備。基本だよね」




