第6話 夜
藍璃が目を覚ましたのは、喉が渇いたからだった。
隣の部屋の水桶は、空だった。廊下を抜けて、中庭の隅にある水場まで行く必要がある。藍璃は、足音を殺して、引き戸を開けた。
夜だった。月が、薄い。中庭の石畳が、青白く光っていた。
水場に近づいたとき、藍璃は、足を止めた。
中庭の奥、平屋の引き戸の前に、人影があった。
徹だった。
徹は、引き戸の前に立っていた。だが、立っている、というより、立とうとしている、に近い。背筋が、いつものように伸びていなかった。肩が、わずかに、前に出ていた。
藍璃は、足を止めたまま、徹を見ていた。
徹が、こちらに気づいた。
目が、合った。
徹の目が、一瞬だけ、何かを言った。それから、目を逸らした。
藍璃は、水場に行けなかった。
「……徹、師兄」
徹は、答えなかった。引き戸に手をかけた。開けようとした。手が、止まった。
藍璃は、徹の手を見ていた。
手のひらが、赤かった。打撲ではなかった。
徹が、手を、袖の中に隠した。
藍璃は、徹の足を見た。太腿が、まだ、何かを耐えた後の震え方をしていた。膝が、完全に伸びきっていなかった。
「……どこに、行っていたの」
藍璃は、聞いた。声が、思ったより小さかった。
徹は、引き戸に手をかけたまま、藍璃を見ていた。五呼吸。
「用事」
徹が、引き戸を開けようとした。
「師兄」
徹が、止まった。
藍璃は、徹の手を見ていた。袖の中に隠された、赤い手のひらを、見ていた。
「……それは、何」
徹は、藍璃を見た。
沈黙が、落ちた。
夜風が、中庭の石畳を、撫でた。
「実験」
徹が、言った。
「……実験?」
「身体を、調べる」
「誰が」
「門派の」
沈黙。
「……なんで」
藍璃は、聞いた。
「親の仇を、討ってもらう代わりに、身体を売った」
徹が、言った。声が、変わらなかった。
藍璃は、息を、止めた。
「……売った?」
「売った」
徹が、繰り返した。
「実験に耐えられる体になるために、ここにいる」
藍璃は、徹を見ていた。徹は、引き戸に手をかけたまま、藍璃を見ていた。
藍璃の唇が、震えた。
「……柔師父は」
藍璃は、聞いた。声が、掠れた。
「知ってるの」
徹が、鼻を鳴らした。
「知ってるに決まってる」
藍璃は、徹を見ていた。
徹の目が、藍璃を見ていた。何も言っていない目。何も感じていない目。
だが、声が、少しだけ、低くなった。
「柔師父は、俺が壊れないように鍛えてる。それだけだ」
藍璃は、自分の手が、震えていることに気づいた。指先が、冷たかった。胸の奥が、熱かった。
「……あんまりだわ」
藍璃は、言った。声が、震えていた。
「あんまりだわ、そんなの」
徹が、藍璃を見た。
徹の目が、変わった。
何も言っていない目では、なくなった。
「君に、関係ない」
徹が、言った。
藍璃は、徹を見ていた。
「関係ない」
徹が、繰り返した。
「君は、自分の修行だけやってろ」
徹が、引き戸を開けた。
「......徹」
徹が、止まった。
「徹師兄、だ」
徹は、振り返らなかった。
「憐むな」
徹が、言った。声が、低かった。
「必要ない」
徹が、引き戸を、閉めた。
藍璃は、中庭に、立っていた。
月が、薄かった。石畳が、青白く光っていた。




