第4話 中庭
二日目、卯の刻。
藍璃が中庭に出たとき、壁の男はいなかった。
代わりに、見覚えのない男がいた。年は二十前後。背が高く、肩幅が広い。道袍の袖から覗く前腕に、筋が浮いている。
細身が、石段の縁に座っていた。
「……来たんだ」
「はい」
細身は、それ以上何も言わなかった。
徹が、中庭の中央に立っていた。昨日と同じ位置。同じ姿勢。
大男が、藍璃を見た。上から下まで。
「……お前が、昨日の新入りか。細いな」
藍璃は、何も言わなかった。
柔が、出てきた。
「並べ」
四人。
「今日」
柔が言った。
「一つ。伏臥撑。百回。胸が地面につくまで下げろ。途中で止めた者は、止めた場所から数え直し」
大男が、鼻を鳴らした。
「二つ。蹲起。二百回。膝を曲げ切れるところまで曲げろ」
「三つ。四つ這い。中庭を縦に往復。十往復。膝を地面につけるな。掌と爪先だけで進め」
「——始め」
―
大男が、地面に手をついた。細身が、続いた。徹が、無音で伏せた。
藍璃も、地面に手をついた。
腕を、曲げた。
胸が ——下がらなかった。
腕が、震えた。肘が、曲がらない。
藍璃は、地面に、崩れた。
胸が、土についた。
藍璃は、もう一度、手をついた。腕を、曲げようとした。
腕が、鳴った。震えた。下がらなかった。
もう一度。
腕が、折れた。地面に、顎を打った。
藍璃は、地面に、伏せていた。
隣の細身が、三十回目を過ぎていた。大男が、四十回目を過ぎていた。徹が、六十回目を過ぎていた。
藍璃は、もう一度、手をついた。
腕が、上がらなかった。
そのとき、影が、落ちた。
柔が、藍璃の前に、立っていた。
藍璃は、地面に伏せたまま、柔を見上げた。
柔は、藍璃を、見ていた。表情は、なかった。
「できないか」
「……できません」
藍璃は、言った。声が、土に、沈んだ。
柔は、五呼吸、藍璃を見ていた。
「胸を、地面から拳一つ分だけ浮かせろ。その位置で、止まれ」
藍璃は、体を持ち上げた。胸が、地面から、わずかに、離れた。
「他の奴らが百回終わるまで、その位置を維持しろ。落ちたら、戻れ。——以上だ」
柔が、背を向けた。
藍璃は、姿勢を保った。腕が、震えている。
十呼吸。
腕が、熱くなった。
三十呼吸。
腕が、鳴った。
五十呼吸。
藍璃の腕が、限界を迎えた。身体が、落ちた。胸が、地面についた。
藍璃は、一秒だけ、地面に、伏せていた。
それから、もう一度、腕を曲げた。胸を、浮かせた。
藍璃の腕が、もう、上がらなかった。地面に、伏せていた。だが、もう一度、腕を、曲げようとした。
曲がらなかった。
藍璃は、地面に、額をついた。
そのとき、細身が、言った。
「……百回、終わりました」
藍璃は、地面に、伏せていた。
腕が、動かなかった。
「次。蹲起」
藍璃は、地面から、這い上がった。
―
蹲起は、できた。
一回目は、できた。二回目も。十回目も。
だが、五十回目で、膝が、笑った。百回目で、太腿が、痙攣した。
百五十回目で、大男が、初めて、呼吸を乱した。
「くそ……二百は、ちょっと……」
「文句を言うな。回数を数えろ」
二百回目。
藍璃は、膝に手をついて、立っていた。
大男が、藍璃を、見た。目を、見開いていた。
「……お前、何で、まだ立ってんだ」
藍璃は、答えなかった。答えられなかった。
「次。四つ這い」
―
四つ這いの五往復目で、藍璃の掌が、擦り剥けた。
伏臥撑で、既に、限界を超えていた腕が、悲鳴を上げた。
八往復目で、藍璃の腕が、折れた。
顎を、地面に、打った。
藍璃は、地面に、伏せていた。
柔が、藍璃を、見ていた。
「膝をつくな」
藍璃は、腕を、曲げた。もう一度、身体を、持ち上げた。掌が、石畳を、掴んだ。爪先が、地面を、蹴った。
九往復目。
十往復目。
藍璃は、中庭の土の上に、うつ伏せに、倒れた。
起き上がれなかった。
柔が、中庭の隅で、腕を組んで立っていた。
「終わりだ。——明日、卯の刻」
藍璃は、土の上に、うつ伏せのまま、目を閉じた。
―
三日目、卯の刻。
藍璃が中庭に出たとき、細身がいた。大男はいなかった。徹も、いなかった。
代わりに、別の弟子が一人、壁際に立っていた。年は藍璃より上。痩せていて、目が窪んでいる。
細身が、藍璃を見た。
「……今日で、俺は最後だ」
藍璃は、頷いた。
「……そう、ですか」
「ああ」
細身が、何か言おうとして、やめた。唇を、一度、噛んだ。
「……まあ、頑張れよ」
藍璃は、細身を見た。
「はい」
「もう一人の師兄は、どこに行ったんですか?」
「徹のことか」
「はい。ずっといるのかと」
「ああ、あいつはずっといる。でも、たまに見ないな」
柔が、出てきた。
「並べ」
四人。藍璃、細身、痩せた弟子。
柔が、三人を見た。
「今日」
「一つ。片足立ち。半刻。目を閉じろ。足を下ろした者は、最初から」
「二つ。石抱き。この石を、胸の前で抱えろ。腕を伸ばすな。胸につけろ。——半刻」
柔が、中庭の隅に積まれた石を、顎で示した。人の頭ほどの大きさの、丸い石。藍璃には、それが何斤あるか、わからなかった。
「三つ。階段。駆け足で三十往復。連続」
柔が、言葉を切った。
「——始め」
―
片足立ちの最初の三十呼吸は、まだ、よかった。
だが、目を閉じると、世界が、揺れた。
気の巡りで、身体の均衡を補助することが、できない。自分の足首の筋だけで、自分の体重を、支えなければならない。
五十呼吸で、藍璃の足首が、震え始めた。
百呼吸で、隣の痩せた弟子が、足を下ろした。
「す、すみません……」
「最初から」
痩せた弟子が、泣きそうな顔で、もう一度、足を上げた。
百五十呼吸で、藍璃の足首が、限界を迎えた。身体が、傾いた。
藍璃は、目を、開けなかった。
傾いた身体を、もう片方の足で、支えた。踏みとどまった。
半刻が、終わった。
藍璃は、足を下ろした。膝が、笑っていた。
「次」
―
石抱き。
藍璃は、石の前に立った。
屈んで、石を、持ち上げた。
重い。両腕で、胸の前に、抱え込んだ。石の表面が、冷たい。粗い。腕の内側に、食い込む。
三十呼吸。まだ、持てる。
六十呼吸。腕が、熱くなってきた。
九十呼吸。肩が、悲鳴を上げ始めた。
百呼吸。
藍璃の腕が、震え始めた。
隣の細身も、歯を食いしばっていた。痩せた弟子は、既に一度、石を落として、やり直している。
百五十呼吸。
藍璃の腕が、限界に近づいていた。石が、重い。腕が、言うことを聞かない。
だが。
藍璃は、石を、離さなかった。
腕が、震えていた。肩が、熱かった。指が、石の表面を、掴みきれなくなっていた。
だが、離さなかった。
藍璃は、前を見ていた。
目の前に、中庭の壁がある。石畳がある。朝の光がある。
藍璃の目は、開いていた。
細身が、横目で、藍璃を見た。
藍璃の顔を、見た。
唇が、噛み締められていた。眉が、寄っていた。目の奥が、熱かった。涙は、出ていなかった。
細身は、自分の石を抱え直した。歯を、食いしばった。
半刻が、終わった。
「やめ」
藍璃は、石を、下ろした。下ろした、というより、落とした。腕が、上がらなかった。
藍璃は、その場に、立ち尽くしていた。
柔が、見ていた。
いや——藍璃を、見ていた。
五呼吸。十呼吸。
柔の目が、藍璃の目から、離れなかった。
―
その日の夜。
柔は、平屋の部屋で、薬を磨いでいた。
手を止めなかった。だが、口が、動いた。
誰に言うでもなかった。
「……内力を封じられて、あの目をする奴は、初めてだ」
柔は、薬を磨ぎ続けた。
「気も何もない。——だが、あの目は」
柔は、手を止めた。
「……」
柔は、もう一度、薬を磨ぎ始めた。
部屋に、石を磨る音だけが、響いていた。




