第3話 初日
卯の刻。
藍璃が中庭に出たとき、すでに三人いた。
石畳の上に、間隔を空けて立っている。朝の薄明かりの中で、三人の輪郭がぼんやりと浮かんでいた。
一人は、中庭の隅で壁に背中を預けて、明らかにやる気のない姿勢で立っている。年は藍璃より少し上、十七か十八。丸顔で、体つきに柔らかさがある。頬が少し膨らんでいるのは、朝餉を食い過ぎたせいか、あるいは単にそういう体型なのか。
二人目は、石段の縁に腰掛けて足をぶらぶらさせている。細身で、目が鋭い。頬に新しい擦り傷がある。藍璃が門をくぐったのに気づくと、目を丸くした。
三人目は、すでに中庭の中央に立っていた。背筋が伸び、両足を肩幅に開き、目を閉じている。藍璃が近づいても、微動だにしない。年は藍璃と同じくらいか、少し下。表情がない。
藍璃が中庭に足を踏み入れると、壁に背中を預けていた男が、藍璃を見た。
「……おい」
男が、隣の石段の細身に、顎で藍璃を示した。
「また新入りか。……って、あ?」
細身が、石段から降りて、藍璃を見た。目を、一度、二度、瞬かせた。
「お前、何歳だ」
「十五です」
「十五」
細身が、壁の男を見た。壁の男が、石段の細身を見た。二人の間に、言葉のない会話が過ぎった。
「……罪状は」
細身が聞いた。声に、敵意はなかった。むしろ、何かを確かめようとするような、慎重さがあった。
「罪状はありません」
藍璃は答えた。
「……は?」
「罰じゃないです。修行で、来ました」
沈黙が落ちた。
壁の男が、壁から背中を離した。細身が、藍璃の全身を、上から下まで見た。細い腕。細い足。道袍の下に見える鎖骨の線。
「……修行」
細身が、繰り返した。
「お前、自分がどこにいるか、わかってるのか」
「戒律堂です」
「戒律堂だ」
細身が、もう一度、壁の男を見た。壁の男が、小さく首を振った。やめとけ、と言っているようだった。
「……あのな」
細身が、藍璃に近づいた。声を落とした。
「ここは、修行するところじゃねえ。罰を受けるところだ。俺は師匠に刃向かって、こいつは三度目のサボりで。……お前みたいな、こんな細いのが来る場所じゃ」
「知ってます」
藍璃は言った。
「でも、ここじゃないと、間に合わないので」
細身が、口を開いた。何か言おうとした。
そのとき、中庭の奥から、足音がした。
いや、足音ではなかった。地面と靴底が触れる、ごくわずかな擦過音。柔が、平屋の引き戸を開けて、出てきたところだった。
壁の男が、即座に壁から離れた。細身が、藍璃から一歩下がった。中庭の中央で目を閉じていた三人目が、目を開けた。
柔は、三人と、藍璃を、一度だけ見た。
「並べ」
四人が、横一列に並んだ。藍璃は、細身と、中央の無表情の間に立った。
柔は、四人の正面に立った。両手を後ろに組んでいる。朝の光が、柔の顔を斜めに照らしていた。表情は、ない。
「今日のメニューを言う」
柔が言った。
「一つ。中庭の外周、三十周。走り切れ。歩いた者は、最初からやり直しだ」
壁の男が、小さく息を呑んだ。藍璃は、中庭の外周を見た。石畳と土が混ざった、不整地。一周、おおよそ百歩弱。三十周。
「二つ。馬歩。半刻。腰が落ちた者は、落ちた分だけ追加する」
細身が、唇を噛んだ。半刻。馬歩で半刻。藍璃には、それがどれほどの時間か、正確にはわからなかった。だが、細身の反応で、十分すぎるほど伝わった。
「三つ。石段を、水樽を担いで往復。二十往復。樽を落とした者は、一往復前からやり直し」
柔が、言葉を切った。
「以上だ。休憩は、三つの間だけ。それ以外は止まるな。——始め」
言い終わる前に、壁の男が走り出していた。細身が、続く。中央の無表情が、無音で滑るように走り出す。
藍璃は、一拍だけ、遅れた。
それから、走った。
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五周目で、息が上がった。
十周目で、足が重くなった。
十五周目で、藍璃は、自分の太腿の内側が痙攣し始めているのを感じた。内力がない。気を巡らせて筋肉を緩めることが、もうできない。自分の筋繊維だけで、次の一歩を踏み出さなければならない。
二十周目。
藍璃の視界の端で、壁の男が歩いていた。
「……っ、ちょっと、足が……」
「止まるな」
柔の声が、飛んだ。大きくはなかった。だが、壁の男の足が、即座に止まった。男が、再び走り出す。顔が歪んでいる。
二十五周目。
藍璃は、自分の呼吸が、音になっていることに気づいた。吸う息が、喉の奥で鳴っている。吐く息が、歯の間から漏れている。胸骨の裏が、熱い。——いや、熱いのではない。酸素が足りない。肺が、酸素を求めている。だが、足は止められない。
三十周目。
藍璃は、中庭の土の上に、両手をついた。
膝が、笑っていた。太腿が、震えていた。胃の奥から、何かがせり上がってくる。
藍璃は、口を押さえた。間に合わなかった。
土の上に、朝餉の残りが落ちた。
藍璃は、それを、見ていた。
細身が、藍璃を見た。目を、見開いた。
壁の男が、走りながら、藍璃を見た。顔を、背けた。
中央の無表情が、藍璃を見た。——見ていたかどうか、藍璃にはわからなかった。
藍璃は、袖で口を拭った。
膝に、力を入れた。
立ち上がった。
柔が、中庭の隅で、腕を組んで立っていた。藍璃を見ていた。表情は、なかった。
「二つ目だ」
柔が言った。
「馬歩。半刻。——始め」
藍璃は、足を、肩幅に開いた。
膝を、曲げた。
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半刻が、どれほどの長さか、藍璃はこの日で知った。
最初の三十呼吸は、まだ、耐えられた。太腿が熱い。膝が震える。だが、まだ、形は保てる。
百呼吸を過ぎたあたりで、形が崩れ始めた。腰が落ちる。背筋が丸くなる。藍璃は、自分の身体の内側に意識を向けた。
内力がない。
気を流して、痛みを和らげることが、できない。
自分の肉体だけで、この痛みに、耐えなければならない。
藍璃の顔が、歪んだ。
涙は、出なかった。だが、唇が、噛み締められていた。眉が、寄っていた。目の奥が、熱かった。
隣の細身が、藍璃を、横目で見た。——この子、泣かないのか、と言っている目だった。
壁の男が、腰を落とした。
「あっ、足が……」
「追加」
柔が言った。壁の男が、泣きそうな顔で、再び腰を上げた。
中央の無表情は、微動だにしていなかった。
藍璃は、自分の足を見ていた。震えている。だが。
——まだ、大丈夫。
藍璃は、自分の太腿に、言った。
——まだ、大丈夫だから。もう、少しだけ。
半刻が、終わった。
柔が「やめ」と言ったとき、藍璃の膝は、既に限界を超えていた。だが、藍璃は、倒れなかった。一歩、足を前に出して、体重を支えた。
細身が、藍璃を見ていた。口が、半分開いていた。
「……三つ目」
柔が言った。
藍璃は、石段を見た。
水樽が、四つ、並んでいた。
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二十往復は、しなかった。
十五往復目で、藍璃の腕が、水樽を保持できなくなった。樽が、石段の上に落ちた。水が、石段を濡らした。
「落とした」
柔が言った。
「戻って、やり直せ」
藍璃は、石段の途中に立っていた。腕が、上がらなかった。指が、開かなかった。水樽の取っ手の跡が、掌に、赤く残っていた。
藍璃は、屈んだ。
水樽を、持ち上げた。
腕が、震えた。肩が、悲鳴を上げた。だが、持ち上がった。
藍璃は、石段を、登り始めた。
細身が、石段の上から、藍璃を見ていた。壁の男が、石段の上から、藍璃を見ていた。中央の無表情が、石段の上から、藍璃を見ていた。
誰も、何も言わなかった。
藍璃は、一段ずつ、登った。
十六往復目。十七往復目。
十八往復目で、視界が、白くなった。
十九往復目で、藍璃は、自分が石段の上に座り込んでいることに気づいた。いつ座ったか、わからなかった。
二十往復目。
藍璃は、水樽を、石段の上に置いた。
置いた、というより、落とした、に近い。だが、水は、こぼれなかった。
藍璃は、石段の上に、座り込んでいた。
息が、できなかった。胸が、上下していた。視界が、まだ、白かった。
柔が、石段の上に立っていた。
藍璃を、見ていた。
表情は、なかった。
「終わりだ」
柔が言った。
「明日、同じ時刻」
藍璃は、石段の上に座ったまま、柔を見上げた。
柔は、藍璃を見ていた。五呼吸。十呼吸。
それから、柔は、顔を背けた。
「飯はしっかり食べるように」
藍璃は、返事もできない。
「徹、厨房に案内してやれ。四半刻後」
無表情が、一度だけ、頷いた。
「はい」
柔が背を向ける。
「水樽を片付けてから、だ」
柔が、歩き出した。
藍璃は、石段の上に座ったまま、柔の背中を見ていた。
細身が、藍璃の横を通り過ぎた。一瞬、足を止めた。
「……お前」
細身が言った。
「……明日も、来るのか」
藍璃は、細身を見た。
「来ます」
細身が、何か言おうとした。やめた。唇を、一度、噛んだ。
「……そうか」
細身が、歩き去った。
藍璃は、石段の上に座ったまま、自分の掌を見た。
水樽の跡が、赤く、残っていた。




