第2話 戒律堂
その日の午後は、藍璃にとって人生で最も長い午後になった。
師父は約束通り、藍璃の親を呼んだ。門派の客間。茶の湯気すら立ててはならないような、張り詰めた空気の中で、父と母、そして師父が向き合っていた。
藍璃は少し離れた場所に座り、自分の膝の上で手を組んでいた。父の背中が見える。武術の心得がある父だ。内力が何かを、経絡が何を意味するかを、誰よりもよく知っていた。
「……それは、あまりに」
父の声は、藍璃が聞いたことのない高さで震えていた。
「戒律堂だと? あそこは、罪を犯した者が行く場所だ。藍璃は何も悪いことをしていない。むしろ、門派の宝となる才を……」
「その才が、彼女を殺す」
師父の声は、朝と同じく穏やかだった。だが、その穏やかさには、議論を挟ませない硬質さがあった。
「藍璃の器は、現在の内力に耐えられない。このまま行功を続ければ、半年もたずに経絡は断裂し、内臓は圧死する。それを防ぐには、一度、気を完全に封じ、肉体だけを鍛え直すしかない」
「だからといって、柔のところへ送ると言うのか!」
父が振り返った。その目は赤く、藍璃を見た。
「あそこに入った人間で、無事に戻ってきた者がどれほどいる。藍璃、お前も知っているだろう。あそこは……」
藍璃は立ち上がった。父の前に立ち、自分の細い腕を差し出した。
「お父様。私の脈、触ってみて」
父は躊躇い、やがて藍璃の手首を握った。その指先が、藍璃の皮膚の下を流れる脈拍に触れる。
一拍。二拍。
父の顔から、血の気が引いていくのがわかった。
「……なんだ、これは。熱い……いや、違う。圧が……」
藍璃は、父の目を真っ直ぐに見た。
「……だから、行かせて」
父は、藍璃の手首を握ったまま、俯いた。肩が、小さく震えていた。
母が、袖で口元を押さえて嗚咽を漏らす音がした。
「……わかった」
やがて父が、絞り出すように言った。
「師父殿。娘を、頼みます。……藍璃。帰ってこい。必ずだ」
「うん」
藍璃は頷いた。
***
戒律堂は、門派の敷地の最も奥、陽光さえも遠慮がちに差し込む谷あいにあった。
師父に連れられ、石畳の道を歩く。周囲には弟子たちの姿はない。ただ、時折、遠くから鈍い音が聞こえてくるだけだ。
*たん、たん、たん*。
何かが、叩かれる音。
「ここからだ」
師父が足を止めた。
目の前には、質素な木造の門があった。「戒律堂」と書かれた木札が、風もなくぶら下がっている。
門の奥、中庭のような場所で、一人の男が薪を割っていた。
中年の男だ。
背は中等程度。だが、斧を振り下ろすたびに、背中や腕の筋肉が、衣服の下で蛇のようにうねるのが見える。
無駄がない。
ただ、必要なものが、必要な場所に、鋼のように収まっている体だった。
男は、師父たちの気配に気づくと、斧を置いた。
そして、こちらへ向かって歩いてくる。
足音がしない。師父と同じだ。いや、師父よりもさらに、地面と一体化しているような歩き方だった。
「珍しいな。この時間に」
男の声は、意外なほど柔らかかった。
「弟子を、預けに来た」
師父が藍璃を前に出した。
柔は、藍璃を見た。
値踏みするような、あるいは設計図を読むような目で、舐めるように見た。
「……華奢だな」
柔は呟いた。
「お前が、弟子をここに寄越すとは思わんかった」
「少し、話せるか」
師父が言った。
柔は師父を見た。目と目が合う。
背を向け、歩き出した。
中庭の奥、柔が斧を置いた場所のさらに先に、平屋の建物がある。柔は無言でそこへ歩き、引き戸を開けた。
部屋は質素だった。畳が敷かれ、隅に薬箪笥と、畳まれた布。中央に座布団が一枚。それだけだ。
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「……成程」
師父の話を聞いた柔が呟いた。藍璃のほうへ振り返る。
「事情はわかった。預かろう」
師父が、わずかに肩の力を抜いた。
「ただし」
柔が言った。
「条件がある」
師父の目が、柔を見た。
「この子の内力、封じてくれ」
間が空いた。
師父が、眉を寄せた。
「……戒律堂に、そのような規定があると?」
「ない」
柔は即答した。
「この門派の戒律堂に、罰の弟子の内力を完全に封じる規定はない。俺も、他の弟子にはそんなことはしない」
「では、なぜだ」
「二つある」
柔は指を一本立てた。
「一つ。この子の今の体で、気が流れたまま俺のメニューをやらせたら、経絡が持たない。それに、効率も悪い。これが、手順だ」
指が二本目に変わる。
「二つ」
柔の目が、藍璃を見た。そのまま、しばらく目を逸らさなかった。
「覚悟だ。体を変える......言うのは簡単だ。遊び半分じゃ困る。そのくらいの覚悟は、見せてもらおうか」
部屋が静まった。
藍璃は、自分の丹田の奥を感じた。蓋の裏で、熱いものが、まだ脈打っている。自分の中で育ち続けたもの。師父が最初に見つけてくれたもの。自分が自分であるための、一番大きな証。
藍璃は、師父を見た。
「師父」
「……藍璃」
「お願いします」
藍璃は言った。声が震えなかったことに、自分でも少し驚いた。
「封じてください」
師父が、藍璃を見た。いつも、見てきた目だった。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……わかった」
師父が、藍璃の前に膝を折った。
柔が、一歩下がった。だが、目は離さなかった。
師父の両手が、藍璃の背中と、丹田の位置に置かれた。
「目を閉じて」
藍璃は目を閉じた。
師父の掌が、温かくなった。丹田の奥に、師父の気が触れる。蓝璃の気と、師父の気。六つの季節、何度も触れ合ってきた二つの気が、最後に交わる。
「消えない。眠るだけだ。器が完成すれば、必ず目を覚ます。——それまで、お前の身体は、お前自身で守れ」
「……はい」
師父の掌が、押し込まれた。
藍璃の身体が、弓のように反った。
痛い、ではなかった。何かが、引かれていく感覚だった。丹田の奥で、六つの季節をかけて積み上がった熱が、一層ずつ、剥がされていく。経絡を流れていた川が、上流から順に、凍っていく。指先の痺れが、消える。肩甲骨の軋みが、消える。胸骨の裏の熱が、消える。
蓋が、閉じた。
ことり、と鳴った。
それから、静寂が来た。
これまで、一度も感じたことのなかった「空」が、藍璃の身体の中に広がっていた。
藍璃は、目を開けた。
師父が、藍璃の背中から手を離していた。師父の顔が、少しだけ、白かった。
「……終わった」
師父が言った。声が、少し掠れていた。
柔が、一歩近づいた。藍璃の前に立ち、手首を取った。師父がしたのと同じように。だが、触れ方が違った。気の圧を読んでいない。脈の速さと、皮膚の下の筋の緊張だけを読んでいた。
五呼吸。
柔は師父の方を向いて、頷いた。
師父が、立ち上がった。道袍の袖が、わずかに揺れた。
「……頼んだ」
「受諾した」
柔は言った。それだけだった。
師父が、藍璃を見た。藍璃が、師父を見返した。
言葉は、なかった。
師父が、部屋を出た。
引き戸が、閉まった。
藍璃は、座布団の上に座ったまま、自分の掌を見下ろした。
指先を、握って、開いた。
——軽い。
藍璃は思った。
身体が、恐ろしいほど、軽かった。
そして、恐ろしいほど、空だった。
柔が、藍璃を見下ろしていた。
「立てるか」
「……はい」
藍璃は、立ち上がった。
足が、少しだけ、震えていた。内力がない。気を巡らせて身体を補助することが、もうできない。自分の筋力だけで、自分の体重を支えなければならない。
それだけのことが、こんなにも、心細かった。
柔は、藍璃の震える足を見た。何も言わなかった。
「今日はここまでだ。隣の部屋に布団がある。寝ろ」
柔は言った。
「明日の朝、卯の刻に、中庭に来い。遅れたら、その分だけ夜が短くなる」
藍璃は、頷いた。
柔が、部屋を出ていった。
引き戸が、閉まった。




