第1話 器
朝の行功は、藍璃にとって一日の中で最も静かな時間だった。
門派の修行場から離れた裏庭の石畳に足を組み、背筋を伸ばして目を閉じる。丹田に意識を沈め、呼吸に合わせて気を巡らせる。六つの季節をここで繰り返してきた。
だが、ここ一月ほど、その静けさに異物が混じる。
気を下腹に収めようとした瞬間、丹田の奥が、ことりと鳴った。
鳴る、というのは正確ではない。音ではない。圧だ。蓋の裏側を、何かがゆっくりと押し上げている。藍璃は息を止めた。経絡の内側を、温かいはずの気が、熱い水のように流れていく。指先が痺れる。肩甲骨のあたりで何かが軋む。
——また、だ。
藍璃はゆっくりと目を開けた。吐いた息が、朝の冷気の中で白く揺れる。自分の身体の内側で起きていることが、嫌になるほどはっきりわかった。気の通り道が、昨日より少しだけ狭い。狭いのに、流れる量は増えている。管が、膨らんでいる。
掌を膝の上に戻し、もう一度目を閉じようとしたとき、
「藍璃」
声が降ってきた。顔を上げる。
師父が立っていた。裏庭に下りてくる石段の上に、両手を後ろに組んで。白い道袍の袖が朝風にわずかに揺れている。顔に表情はなかった。だが藍璃は、その目が自分を"見て"いることを知っていた。気の流れを、経絡の拍動を、皮膚の下を走る血管の一本一本まで、透かすように見ている目だった。
「師父。おはようございます」
「行功を止めて」
藍璃は瞬きをした。まだ始めて一刻も経っていない。
「……はい」
言われた通り、気を巡らせるのをやめた。丹田に沈めていた意識を引き上げる。すると、圧が、少しだけ楽になった。蓋の裏で膨らんでいたものが、わずかに引く。藍璃はそれを「楽になった」と感じ、同時に「楽になったと感じる時点で、おかしかった」とも思った。
師父が石段を降りてくる。足音はしない。道袍の裾が石畳を擦る音だけが、近づいてくる。
「手を出して」
藍璃は両手を前に差し出した。師父の指先が、藍璃の手首の内側に触れる。脈を診る仕草。だが、触れているのは脈ではない。皮膚の下、経絡を流れる気の圧を、指先で読んでいる。
沈黙が、十呼吸ほど続いた。
藍璃は師父の顔を見ていた。師父の眉は動かない。だが、触れている指先の力が、ごくわずかに、強くなった。
「師父」
「黙ってな」
藍璃は口を閉じた。
さらに十呼吸。師父が手を離した。離した指先を、道袍の袖で一度拭った。藍璃の汗ではない。師父自身の指先が、わずかに湿っていた。
「藍璃。今朝、行功の前に身体を動かしたか」
「はい。いつも通り、裏庭を十周走ってから座りました」
「走っている間、胸の奥に違和感はあったか」
藍璃は、自分の身体の内側を思い返した。素直に答えた。
「ありました。胸骨の裏が、少し熱い感じがしました。息を吸うたびに肋骨の内側が突っ張るような……」
「それ以上は」
「走るのが怖くなりました。足が動くのに、胸の中が追いつかない感覚があって」
藍璃はそこで一度、言葉を切った。自分の掌を見下ろした。指先はまだ、少し痺れている。
「……止めたほうがいいと思ったんですが、十周はいつもの日課なので、走り切りました」
師父は黙っていた。
藍璃はもう一度、師父の顔を見た。六つの季節、この人に武の手ほどきを受けてきた。師父が怒る顔も、困る顔も、笑う顔も知っている。だが今、目の前にあるのは、そのどれでもない顔だった。
「師父。私の身体は、どうなっていますか」
藍璃は聞いた。声が震えないように、意識的に、真っ直ぐに聞いた。自分の身体の中で何が起きているか、もう何となくはわかっていた。だが、自分の推測と、この人の口から出る言葉は、重さが違う。
師父は、藍璃の前に膝を折った。目線が合う。
「藍璃。お前の内力は、この一月で、倍になった」
藍璃は瞬きした。知っている。
「半年前と比べれば、三倍近い。お前が座って気を巡らせている間も、寝ている間も、お前の丹田は気を生み続けている。これは才能だ。この門派で、いや、私の知る限りこの世で、これほどの速度で気を蓄えられる人間を、私は見たことがない」
師父の声は、穏やかだった。穏やかすぎるほど穏やかだった。
「だが」
そこで、一度だけ、間が空いた。
「お前の経絡は、お前の血管は、お前の筋は、六つの季節前に私が初めて会った時から、ほとんど変わっていない。器が、育っていない」
藍璃は、自分の手首を見た。細い。師父の指のあとが、うっすらと赤く残っている。
「気は増え続ける。器は増えない。——このままでは、お前の身体は、内側から弾ける」
朝の風が、裏庭の竹を揺らした。さらさらと、乾いた音がした。
藍璃は、その言葉を聞いた自分の身体が、どう反応したかを感じていた。心臓が一拍、強く打つ。指先の痺れが、少しだけ強くなる。丹田の奥で、蓋が、ことりと鳴る。
「師父。どうすれば、いいですか」
師父が、藍璃を見た。六つの季節、見てきた目だった。この子の才を最初に見た目。この子の目が、逸れていないことを確かめる目。
「方法は、ある」
師父は言った。
「だが、お前が思っているより、ずっと苛烈だ」
藍璃は、膝の上で拳を握った。指先がまだ少し痺れていた。
「教えてください」
藍璃は言った。
「私、死にたくないので」
師父が、ほんの少しだけ、目を細めた。笑ったのではなかった。だが、それに近い何かが、その顔を一瞬だけ掠めた。
「わかった」
師父は立ち上がった。道袍の袖が、朝風に鳴った。
「今日中に、お前の親を呼ぶ。話をしなければならない。——藍璃」
「はい」
「お前の身体は、今日から預かる。だが、鍛えるのは私ではない。お前を、別の人間に託す」
藍璃は、師父を見上げた。
「......その方は」
「戒律堂は、聞いたことあるだろう」
藍璃は目を見張る。
門派の戒律堂ーーそこに行けと命じられたことは、これまで一度もなかった。
「私は、しつけのために、弟子をあそこにやることはしない。だがーー」
師父は、石段のほうへ歩き出しながら、振り返らずに言った。
「この門派で、肉体の作り変え方を一番知っている人間だ」
藍璃は、その背中を見送った。裏庭の竹が、まださらさらと鳴っていた。丹田の奥で、蓋が、ことり、と鳴った。




