第七十六話 蟒蛇の襲来①
前線に戻る前にタナトス領の城に寄ったアシュベルは、久し振りの自室で武具の手入れをしていた。剣を磨き、防具が痛んでいないか確認する。あまり弓を使うことはないが、手入れは怠らない。弦が切れかかっていないか、握りが滑らないか、鏃や矢羽なども確認する。武具の手入れは好きだ。集中出来るし、落ち着く。趣味と言っても良い。そんな至福のひと時だったが、扉を叩く豪快な音が響いたと同時に、返事をする間もなく祖父が入って来た。
「お、感心感心、武具の手入れ中だったか」
「なんだよ。邪魔しないでくれよ」
「まぁそう言うな。飲むぞ」
「じぃさまの酒は強すぎるんだよ」
「そう言うと思ってな、今日のは弱いぞ」
弱いと言うが多分強い。年代物の酒のようだ。美しい琥珀色が邪悪に見える。
これは明日起きても酒が抜けなさそうだと諦めながら、祖父が注いだ酒を受け取った。まるで夏にエールをがぶ飲みするかのようなグラスだ。大きすぎる。それでも、アシュベルは祖父と飲むのが好きだった。先に潰れるのは自分だが、家族の中で唯一本心を話せるのは祖父だった。
「こんなグラスで飲む酒じゃねえだろ」
「いちいち注ぐのが面倒だからこれで良い」
そう言ってグラスが割れんばかりの乾杯をした後、喉の音を鳴らしながら飲み干すじぃさまに思わず苦笑いだ。先ほどいちいち注ぐのが面倒と言っていたが、自分で二杯目を注いでいる。アシュベルも一口飲んだが、いつもより心持ち弱い程度で、やはり強かった。
「なんだ、ちまちま飲みおって」
「明日前線に戻るからな。二日酔いで死んだら洒落にならんだろ」
「そんなもん魔獣を前にすれば醒めるだろ」
「そりゃ、じぃさまはな。俺はまだ死にたくないんでね」
「お前、まだ平民の娘と付き合ってるのか」
「なんだよ、いきなり」
「大事な話だ」
「…付き合ってるよ」
「そうか」
そう言って二杯目を飲み干した。蟒蛇にもほどがある。三杯目はアシュベルが注いだ。祖父は嬉しそうだ。
「それでだ、その娘なんだが…シルヴィストに会わせる前に、儂に会わせてくれんかな」
「父上より先に?なんで?」
「ちょっと会ってみたい」
なんだその理由。
「…別に良いけど、ノルディア領にいるから次に行くのは雪解けの頃だぞ」
「なんじゃお前、雪が解けるまで会いに行かんのか」
「行きたいけど」
「雪が深かろうが、行くだろ。愛しい女に会いに行くのに、雪など関係あるまい。そんなもん、雪国育ちのくせに…腑抜けだな。次の休みに行くぞ」
「えっ」
ちょっと待て、このままではフィデール子爵よりも先にじぃさまがアリシアに会うことになりそうだが、それは良いのか?え?どうなんだ…とアシュベルは酒で頭が回らない。
「お前、この矢はいかんぞ」
「え?」
「ここの羽が欠けておる」
「ほんとだ」
「まだまだ甘いな」
「それはまだ手入れ前だったんだよ」
「言い訳するな」
「すみません…」
そんな話をしながら二人とも酒が進み、日付が変わって数時間が過ぎた頃、
「じゃあそういうことだからな」
と言い残して、祖父は部屋を出て行った。
そういうことって何のことだ?と考えても、何のことだか分からないアシュベルだった。
二月になり、無事に入学試験を突破したルーシィは学校に通い始めた。それと同時に、アリシアが勧めた剣舞の稽古も始めている。隣町に武芸の神を祀る神殿があり、そこで舞い手に稽古をつけているとフローリアから教えてもらい、紹介状を認めてもらったのだ。
剣舞の稽古では姿勢や指先の動き、足の運び方などの指導もあるため、家政科で学ぶ所作の授業にも役立っているようだ。言葉遣いや美しい文字の書き方はオーグス神殿でも神徒女性に指導を受けており、苦手と言っていた料理や裁縫なども日に日に上達している。令嬢が身に付ける礼儀作法と異なり、平民向けの学校ではあくまでも下位貴族の屋敷や裕福な商家などで働ける程度の作法の取得を目指している。平民が中位以上の貴族に奉公することはあまりないためだ。下位貴族であれば平民を娶ることもある。奉公先で見初められて嫁ぐこともあり、つい先日、専門学校で出会いアリシアと親しくしているエラも男爵家の三男と結婚した。アシュベルの生家は高位貴族家だが、作法については問題ないように思えた。後はルーシィの出自だ。こればかりは努力でどうにかなるものではない。ルーシィが平民だということを隠すようなアシュベルではないし、隠したところですぐに露見するだろう。辺境伯夫妻が許すかどうかだ。そのために、出来ることをやる。ルーシィの努力を、アリシアは応援するほかなかった。




