第九話 明くる朝
鳥の声に目を覚ましたアリシアは、まだ眠っているヴィンセントを起こさないよう、そっと寝台から降りて水差しを傾けた。いつの間に用意されていたのか、中の水は冷たい。寝乱れた髪とはだけた胸元が鏡に映り、アリシアは昨夜のことを思い出して何とも言えない気恥ずかしさを感じ、勢い良く水を飲んだ。
アルメニア王国の貴族間の慣習では、初夜の前には少量の媚薬を入れた発泡酒を飲む。初夜の緊張感を緩め、失敗を防ぐためだ。アリシアとヴィンセントも慣習通りに発泡酒を飲んだ。その後のことはよく覚えていない。夢中というよりも必死だった。ばぁやは、ただ力を抜いて恥じらっておけばよろしい、と言っていたが、それどころではなかったように思う。
昨夜のヴィンセントは、美しい獣のようだった。正直に言えば、見惚れたのだ。媚薬のせいなのかどうかは分からない。薄暗い照明に銀の髪が煌めき、青紫の目が鋭くアリシアを射抜いた。そうして抱き合えば、ヴィンセントの体温を心地良く感じたりもした。
…これが夫婦…心臓が持たないわ…などと思いながらまた水を注ぐと、後ろで衣擦れの音がした。
「…起きていたのかい?」
半身を起こしたヴィンセントと目が合う。
途端に恥ずかしくなり、胸元を直した。
「おはようございます。お水を飲まれますか?」
「おはようアリシア。ありがとう、頂くよ」
水を注いだグラスを渡すと、喉が渇いていたのかヴィンセントも一気に飲み干した。口元から少し溢れた水が顎を伝うのも艶かしく見え、アリシアは目を逸らした。
ヴィンセントはアリシアの手を握り、寝台に座らせた。腰の辺りに腕を回され、心臓が跳ねる。
昨夜の余韻が抜けない二人に、良いのか悪いのかアリシアのばぁやが扉の向こうから声を掛けた。
「朝のお支度に参りました。お目覚めでしょうか」
「え、ええ、起きてるわ!入って大丈夫よ」
慌てて離れた二人に、若い夫婦の初々しさを感じた老婆と侍女達は、緩んだ顔を引き締めつつ、
「昨夜のお床入り、するするとお済みのご様子、おめでとうございます」
と、頭を下げた。
何なの、その挨拶…恥ずかし過ぎるんだけど…アリシアの顔は熟れた林檎よりも赤い。ちらと見たヴィンセントの顔も紅潮していて、居心地の悪さを感じているようだった。
「まあまあ、お二人でごゆっくりなさりたいところでしょうが、それぞれのお部屋で湯浴みの用意を整えております。まずはお身体をお清め下さい」
「ばぁや!もう!」
バタバタと去って行くアリシアの後ろ姿を、ヴィンセントと侍女達は笑って見送った。
湯を浴び、身なりを整えたアリシアの手を、ばぁやは涙ながらに摩りながら、
「仲睦まじいご様子に、このおばば安堵致しました。お嬢様はきっと幸せにおなりです」
と言って笑った。しわしわの顔が涙で濡れている。
「遠くまで付いて来てくれてありがとう、ばぁや。ヴィンセント様とも以前から話していたの。ゆっくり良い夫婦になりましょうって」
「ええ、ええ、なれますとも」
ヴィンセントは王都の邸宅から通いで王宮勤めをしている。朝見送れば日中は一人だが、心が通い合いつつあり寂しくはなかった。貴族院時代は寮生活であまり王都を散策したことはなかったが、美味しいお茶とデザートを楽しめる店などもあり、時々オリアナを誘い訪れたりもした。義母はアリシアと顔を合わせようとしなかったが、侍女達は皆親切だったし、夜にはいつもヴィンセントが側に居た。
そうして、数ヶ月後…
アリシアは懐妊した。




