第六十二話 氷の帳を抜けて
一体どのくらいの時間が過ぎたのだろう。手足の感覚がなく、目を開けているのか閉じているのかも分からない。暗いようで明るいような、靄に包まれているようだ。
体の中を、何か温かいものが通っていく…
氷のように冷たかった体が、ゆっくりと温まっていくようだ。春の日の光が、徐々に雪と氷を解かし水となって流れていくような…全身を血が巡っていく…。
「…」
…天井?
目を開けると、飛び込んで来たのは見覚えのある天井だった。スナイデル領の…父が用意してくれた俺の部屋…胸の上に感じる温かな重みに体をよじれば、柔らかなものが鼻をくすぐった。花の香りの、優しい茶色の髪の毛。
…アリシア?
ああ、俺は死んだのだな。アリシアが隣で寝ている。俺の胸の上に、アリシアの腕がある。温かい。重みまで感じる。生きながら翼竜に喰われる代償に、夢を見させてくれるとは。魔獣とは存外情け深いようだ。夢でも良い。アリシアをこの腕に抱けるのなら…
「リヒト?」
頬に感じるアリシアの手のひら。
「気が付いたのね!良かった、気分はどう?」
「…」
アリシアの手に自分の手を添えれば、そっと握り返してくれる…なんて良い夢なんだ。
「体を支えるから、少し起きられる?ずっと何も食べていないから、温めのお茶をゆっくり飲んでみて」
背中に枕を入れ体勢を整えてくれた後、アリシアは俺に茶を飲ませた。ホッとする味だ。喉から腹がじんわりと温まるようだ。夢現に、体を巡っていた温かいものは、これだったのか…
「覚えていないかも知れないけれど、翼竜の結晶に捕まって冬眠のような状態になっていたのよ。体が冷え切っていたから、ゆっくり温めることしか出来なくて…このまま目を覚さないかと思ったわ…」
「…」
「私のこと分かる?あなたがちっとも迎えに来てくれないから、私から来ちゃったわ」
「…リシあ…」
「そうよ、リヒト。無事で良かった」
そう言って涙を浮かべたアリシア。以前よりも大人びて…綺麗になっている。俺は、死なずに済んだのか。迎えに行くと言っておきながら…きみに助けられたのか…こんな俺を側で温めてくれていたのか。
「ゆっくり休んで。でもまたちゃんと起きてね。みんなに知らせて来る」
ふわりと一度抱擁した後、アリシアは寝台を下り部屋を出て行った。アリシアが残した花の香りが、これは夢ではないと教えてくれていた。
翼竜の結晶に包まれる前、俺達はエーデルハイドの稀石を見付け懐に入れていた。瘴気を吸うというその石が、俺達を生かしてくれたのかも知れない。騎士達も無事に目覚め、少しずつ食事も摂れるようになっているという。
「これがエーデルハイドの稀石か。綺麗な石だな」
「ね、綺麗な六角形。色も半透明なのね」
「ザドキエル先生に早く知らせなくてはな」
アリシアとヴィンセント様、それからアリシアの幼馴染という北の辺境伯の令息。俺の部屋に入り浸り、茶を飲み、稀石を珍しそうに見ている。…混乱しそうだ。ヴィンセント様とアリシアは知らない内に打ち解けている。元々夫婦ではあるが、わだかまりはないのだろうか。アリシアの幼馴染アシュベル様は、あからさまに不愉快そうな顔を隠すことなく、ふん、死に損ねたな。と舌打ちをしたが、こちらの方がまだ自然な気がする。
そして、俺の横で寝ている幼い男の子…
…レグルスと名付けたの。
アリシアは優しい母の顔でそう言った。
ふっくらと、林檎のような頬をした男の子。寝台に横になっている俺の側に寄り、
「おにいちゃ、ねむいの?いたいいたい?」
と、話しかけてくれた。
「お兄ちゃんじゃないのよ。お父さんだよ」
「おとうちゃ」
「そう。お父さん。お父さんはちょっと痛い痛いだから寝てるの。早く良くなって遊んでもらおうね」
「うん、おやくそく」
そう言って、俺の小指と自分の小さな小指を絡ませた。アシュベル様によく懐いているレグルスは、紙を丸めて剣を模したものを手にしてアシュベル様に挑んでいた。アシュベル様も同じように紙を丸めたものでしばらく相手をしていたが、動き回って疲れたレグルスは突然床に突っ伏して寝てしまった。
「子供は体温が高いから、リヒトを温めるのに丁度良いわ。一緒に寝てて」
アリシアはそのレグルスをひょいと抱き上げて、俺の横に寝かせたのだった。
…やはり、夢かも知れない…
アリシアがいて、レグルスがいて…
夢から覚めれば、影と呼ばれ日陰を生きていたあの頃に戻るのではないか。
そう思わずにはいられなかった。




