第三十六話 オーグス神殿
領境を越えればすぐにオーグスに到着した。停留所で切符を売っている老人に神殿の場所を尋ねると、
「お嬢さん、そんなに若いのに…まさか出家するのかね?」
と、心配そうな顔をされてしまった。アリシアの手には、ただ祈りを捧げに行くにしては大きな荷物がある。スナイデル邸で見聞きしたことに対する心労や、悪阻などもあり顔色は良くないだろう。ご老人が心配してくれるのも無理からぬ状態だと、自分でも思う。
「いえ、違います。オーグスにある薬学専門学校に通いたくて…初めての町なので、神殿にも立ち寄ろうかと…」
「そうだったのかい。余計なことを言ったね」
「いいえ、ご心配下さり有難うございます」
「冬の試験がもうすぐだね。受かると良いね」
アリシアは頷き、ご老人に御礼を述べて神殿に向かった。冬の試験までは間がないが、出産すれば赤子に乳を与えなくてはならない。生まれるまでに、出来るだけ多くの学科を修めたい。離乳食が始まれば赤子を預けやすくもなるだろうが、それまでに預かってくれるところも探さねばならない。だが、まずは神殿へ行きラウール・ザドキエルの妻フローリアに会い、養女リーシュの戸籍を使わせてもらうことの了承を得なければ、学校には通えない。
神殿の祭壇までは一般開放されている。神殿で働く下女と思われる老女に、ザドキエル先生がフローリアに宛てた手紙を預け、面会を申し入れた。
祭壇を見上げ、夫婦神の意向に添えなくなったことを詫びていると、
「リーシュ?」
と、優しげな声が響いた。
振り返れば、緩く巻いた短い白髪が美しい老婦人が、手紙を手にして佇んでいた。アリシアと目が合い、こくりと頷いた。
「お久し振りです、お母様」
「久し振りね、リーシュ。会いに来てくれて嬉しいわ」
ゆっくり話しましょう、そう言って、自室に案内してくれた。
「ラウールからの手紙を届けてくれて有難う。私はフローリア・ルーイン・ザドキエルです。リーシュの戸籍のことなら心配しないで、役立てて。それにしても…大変だったわね…」
手紙の内容は分からないが、粗方の説明をしてくれたようだ。
「私も神殿で神に仕えている身だから…神託のことはもちろん知っているし、その妻が亡くなったことも知っていたの。でも…まさかそれが誤りだったなんて…さぞ辛い思いをしたことでしょう」
「夫婦神のご意向に添えなくなったことを、お詫びしたのですが…今までに、神託に添わなかった例はあるのでしょうか」
「今までに三度あったと言われているわ。いずれも、あまり良い結果にはならなかったと…」
「多くの方に影響があったのでしょうか」
「それは神託の内容によるわね…神意を推し量ることは人の身には出来ないけれど…あなたの場合は婚姻についてのみ示されていたから、例えば天災が起こるとか、そういうことはないと思うけれど、何とも言えないわね…」
不安そうなアリシアの手を握り、摩ってくれるフローリア。幼い頃から寄り添ってくれたばぁやを思い出して涙が溢れそうになる。
「起こってもいないことを心配しても仕方ないわ。お腹に赤子がいるのだし、気を強く持って。神殿は行き場のない娘を放り出したりしないわ。小さな部屋だけど、そこを使いなさい。薬学専門学校にも歩いて通えるし、出産経験のある神徒も多いから安心して」
それを聞いたアリシアの目からは涙が溢れ出た。
「大丈夫よ、リーシュ」
ふわりと抱き締められれば、神殿で焚かれているお香の匂いがした。迷える人々が訪れることの多い神殿では、心労を和げるために香が焚かれているのだ。
アリシアは、持参した貴金属を納め、滞在させてもらうことの対価とした。毎朝の礼拝や清掃などを神徒達や神殿に身を寄せる人々と共にこなしながら、入学試験に向けて昼夜問わず書物と向き合い、フローリアには赤子に障ると叱られた。貴族院を卒業したアリシアには、入学試験自体はそう難しくないだろうと言われたが、平民向けの学校とはいえ油断は出来ない。何が何でも合格せねば、助けてくれたザドキエル夫妻に顔向け出来ない。
そうして、年が明けて間もなく、受験の日を迎え…リーシュ・ザドキエルはオーグス薬学専門学校の入試を突破した。




