第三十五話 旅立ち
ラウール・ザドキエルの養女リーシュ・ザドキエルは、アリシアよりも二つ歳上で、茶色い髪に茶色の瞳を持っていたそうだ。アリシアはザドキエルの庵に一週間程滞在し、魔法の基礎や薬学の基礎を教わった。その間、追っ手の気配を感じることはなかった。黒の森は深い。森よりも、乗合い馬車の乗り場や、フィデール領方面へ延びる街道に追っ手が潜んでいるかも知れない。アリシアは死んだことになっているため、目立つような追跡はされていないはずだが、放っておいてくれるとも思えない。アリシアは、胎児に影響のない毛染めのハーブで髪色を少し暗くし、町娘のように短く切った。伊達眼鏡をかけ人相を誤魔化す。髪色は二週間程しか持続しないが、色が違うだけでも印象が変わるだろう。ただ、ノルディアは隣の領とは言っても妊婦が歩いて行くには辛い距離だ。馬に乗れば速いが、揺れが直に体に響くことと、女性が馬に乗る機会の少ない王都では目立ってしまうため、乗合い馬車を使った方が良いだろうとの結論に至った。身分証はリーシュ・ザドキエル名義のものを預かる。
「何から何までありがとうございます…ザドキエル先生…お預かりした身分証は必ずお返しします」
「好きでやったことだ、気にするな。娘が帰って来たようで、楽しかったよ…辛い目にあった君には申し訳ないが、娘に頼られたようでな」
妻によろしく伝えてくれ、とザドキエルはアリシアを見送った。
乗合い馬車の停留所では、騎士らしき男が乗客の顔と身分証を検めていた。身分証には顔の写し絵はないので問題ないが…あの騎士は見覚えがないわ…離れの衛兵ではないけれど…怖い。アリシアは人の印象に残りにくくするための魔法を展開した。
澄ました顔で、堂々と。騎士に身分証を見せる。
「リーシュ・ザドキエル…君は、ザドキエル先生の身内かい」
「はい、娘です。隣の領に居る母に会いに行きます」
「そうなのか。私は貴族院で先生に魔法学を習ったよ。大変お世話になったんだ。道中気を付けてな」
「ありがとうございます」
…良かったわ、本邸の護衛騎士ではなかったみたい…身分証を貸してくれたザドキエルに感謝しながら馬車に乗ったのも束の間、外から騎士達の会話が聞こえた。
「ここで一週間見張っているが、怪しい者はいないな」
「そうだな。若い娘は居るが、皆身元がはっきりしている」
「一体どこに逃げたんだろうな」
…早く、早く出発して…!
内心焦りながらも、顔はごく自然に…先生に譲られた魔法陣の基礎の本を開き、騎士達の動きを耳で感じていると、乗合い馬車はゆっくりと進み始めた。さりげなく窓から後ろを見れば、先程の騎士達が他方面へ向かう乗合い馬車を確認していた。
王家直轄領とノルディア領の境にある町、オーグスまでは乗合い馬車で一日半掛かるため、途中の町で下車して宿に泊まり、翌日また馬車に乗ることになる。ルーセントを妊娠していた時と比べ悪阻は軽いが、少し怠さがある。ザドキエルは食欲がない時でも飲めるようにと、滋養のあるお茶を持たせてくれた。水筒の中のお茶はまだ温かい。喉を通るお茶にホッと体が休まる心地がした。
…茶葉もたくさん頂いてしまったわ。ザドキエル先生にはいずれきちんと御礼をしたいわ…
優しく撫でてくれたしわのある手と、少し丸い背中を思い出せば涙が溢れそうになった。
アリシアには育児経験がない。学校に行きながら一人で子育てをすることに不安はあるが、稼がなければ子供を育てることは出来ない。正確には、数年は暮らせる金銭的余裕はあるのだが、平民が働かずに暮らしていれば怪しまれる。薬学を早く修めたい気持ちも強かった。
…大丈夫、大丈夫…
アリシアは自分に言い聞かせるように心の中で呟きながら、流れる景色を眺めていた。




