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きみの頬をなでる風になれたら  作者: 朝倉いろは


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第三十四話 戸籍

 妊娠しているのにこんなに走っても良いものかと、アリシアは不安だったが、とにかく必死だった。心が乱れて、隠密の魔法を発動出来る状態ではなかった。ようやく身を隠すことが出来る黒の森へ入り速度を緩める。振り返って追っ手を確認したが、今ところは誰かの気配はなかった。ふぅ、と息を吐き、荷物を持ち直したアリシアはザドキエルの庵へと急いだ。


 アリシアが手に持った荷物を見たザドキエルは、何かを察したようだった。アリシアの心を気遣うように、

「何か…知ってしまったんだね?」

 と、アリシアに問い掛けた。

「はい…先生が言われていた通りになりました」

 ザドキエルは一度目を瞑り大きく息を吐いた後、アリシアを椅子に座らせ、温めのお茶を渡した。

「私も全てを知っている訳ではないが…」

 アリシアは温かいカップを両手に挟みながら、ぽつぽつとザドキエルにスナイデル家本邸で見たことを話した。

「私は出産後すぐに子供と引き離されて、スナイデル邸の離れに閉じ込められていました。子供に会ったのは産後一年以上過ぎてから、一度だけです。でも、隠密の魔法を知って…子供に会いたくなってしまったんです。そしたら…本邸の庭で、息子がアナベル・カーマイン様を母と呼んでいて…そして女の子がヴィンセント様を父と呼んでいるのを見ました…四人が仲睦まじく過ごしているのを見ました。そして義母の部屋で…ヴィンセント様と、ヴィンセント様によく似た男性を見ました。義母は二人に、私のお腹の中の子供を堕胎させるようにと…」

 難しい顔で話を聞いていたザドキエルは、アリシアの肩を撫で、ハンカチを手渡した。流れる涙を拭うと、ハンカチは爽やかなハーブの香りがした。

「私が知っている事は少ないが…君は息子を産んだ後すぐ、亡くなったと聞いていた。そして喪が明けた後、アナベル・カーマインがヴィンセント・スナイデルの妻として迎えられたと…」

「わ、私…死んだ事になっていたのですね…実家には何度も手紙を書いていたんです。でも返事が余所余所しくて…誰かが筆跡を真似ていたとすれば…」

 …当然だわ…と声が小さくなる。

「君の墓は、王都の共同墓地の貴族区内にあるはずだ」

「お墓まで…では、今私には戸籍もない状態なのでしょうか」

「恐らくはな」

「生きて行くために、薬学を勉強したかったのですが…戸籍がなければ学校にも行けない…それどころか、仕事も住むところも…」

 身重の体で歩いて行くのは辛いけれど、フィデール領まで行けるかしらと、独り言のように呟いていると、ザドキエルはちょっと待ちなさいと声を掛けた。

「君は妊娠しているのだろう。もうすぐ雪も降り始めるだろうし、フィデール領は北国だ。雪も深くなるだろう。魔獣や野盗に襲われるかも知れない。一人で歩いて行くのは危険だ」

 ザドキエルは、本棚から一冊の本に挟まれた古い紙を取り出した。

「これは私の養女の戸籍だが…君と歳も近い。この戸籍を使いなさい」

「…え?」

「私と妻の間には子が出来なかったが、ある日黒の森に捨てられている赤子を見付けてな。妻と相談して養女にすることにしたのだ。もちろん、役所にも届けてあるから正式な書類だよ。だが…十歳になったばかりの頃、私と共に薬草取りに出掛けた際、崖を滑り落ちて行方知れずになった。下には川が流れていたから、恐らくは流されたのだろうが…随分と探したが、とうとう見付けられなかった」

「そんなことが…」

「だが、亡骸を見ていない以上、私も妻も娘を死んだ事には出来なかった。いつか帰って来てくれるような気がしてな。もう潮時だろう。君が役立ててくれ」

「でもそれじゃ、背乗りになってしまいます」

「アリシア君、君はもう死んでいる。誤りだったとするには、恐らく相当複雑な根回しが必要だろう。何せ神託の妻が死んだのだから、世間に広く知れ渡っている。君の顔を知らずとも、名前を知っている者は多い」

「…そう、ですよね…」

「妻は娘の無事を祈るため出家し神殿に入った。隣のノルディア領だが、領境の町だからそう遠くない。出産と産後はそこを頼りなさい。その町には平民向けの薬学を学べる学校もあるから、そこに通うと良い。娘は恐らく平民だったから魔力も低かった。私の養女だとして怪しまれることはあるまい」

 手紙を書いてあげよう、とザドキエルは紙とペンを取り出した。その姿に、アリシアは父の姿を重ね、流れる涙を止めることが出来なかった。

「きっと家族にも会える。気を強く持つんだ。今日は此処に泊まりなさい。誰か追っ手が来たとしても、君なら隠れるのは簡単だ、そうだろう?」

 ザドキエルは笑って、アリシアの頭を撫でた。

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