第三十一話 影④
疲れた様子のヴィンセント様に代わり離れを訪れると、ちょうどパイを温め直しているところだった。侍女達は俺を見て二人分の席を用意し下がろうとした。
「お疲れ様。みんなが場を整えてくれたお陰で、おもてなしはうまくいったと思うわ。ありがとう」
アリシアは侍女達にパイを持たせた。侍女達にも笑顔が見える。マリアンネ様の機嫌を損ねずに済んだようだ。だが、パイは減っていない。あの方が召し上がるとも思えなかったが、特に気にしている様子もない。それも織り込み済みなのだろう。
「母上は気難しいから、気疲れしただろう」
アリシアは首を振る。
「大丈夫です。お義母様がお許し下さったので、ルーセントを抱くことが出来たし林檎のコンポートを食べさせることも出来て…ルーセントも気に入ってくれて、パクパク食べてくれてとても可愛くて」
本来なら、母親が我が子を抱くのに誰かの許可など必要な訳がない。もう分からなくなっているのだろう。林檎はアリシアが手ずから食べさせたのだろうか。優しい笑顔だ。
「やっと親らしいことが一つ出来ました」
そう言ってパイを口にしながら、ふと寂しげな顔になる。
「ルーセントはヴィンセント様に似ていますね」
「そうだね、髪の色や瞳の色が同じだからね」
「私の髪と目の色に似ず、良かったです」
「そんなことを言うものじゃないよ。きみに似ていたらもっと可愛かったさ」
「私に似ていれば、この手で育てることが出来たのでしょうか…」
「母上はこの瞳の色を特別視し過ぎる」
…溜息が出る。こんな瞳の色が何だと言うのだ。
パイを口に運べば林檎の風味とほのかな酒の香りが口に広がる。…美味い。
「生まれた時はあんなに小さくて軽かったのに…大きくなって、重たくなって…私の知らない間に…」
ポロポロと涙を零すアリシア。最近は泣いていなかったが、我が子に会い切なくなったのだろう。アリシアの側に寄り抱き締めれば、腕の中の小さな背中が震えている。こんな時、俺には何も出来ない。夜を共にしていても、俺は夫ではない。戸籍もない。名前すらない。彼女を騙しているのは俺だ。
「私は酷い親なのです。ルーセントの代わりが欲しいと思ってしまうのです。二人目が欲しいと…自分の手で育てたいと」
うう…と呻くように苦しそうに泣いている。罪悪感があるのだろう。こんな目にあっているのは自分のせいではないというのに。
「ルーセントの代わりになんて、そんなことを思うから授からないのだわ…」
アリシアの髪を撫で、額にキスを落とす。
「気に病まないで、まずは体力を戻そう。さぁ、甘いものを食べて元気を出すんだ。このパイはとても美味しいよ。きみは料理上手だな。今度は別の料理も食べさせてくれ」
頬を流れる涙を指で拭うと、アリシアは俺の手を握り頬ずりをした。そして手のひらにキスをした。
「…私、ヴィンセント様の手が好きです。優しい人の手だわ」
…アリシアのその言葉が、鋭く深く俺の心を抉った。弱った心につけ込み、優しい振りをしてこの離れに縛り付けているのは俺だ。子を授からないのは俺のせいなのだ。俺の子を身籠るなど、あってはならない。あの薬茶は…
アリシア、俺は…
言葉の代わりに口付ければ、背中に回された指が爪を立てる。縋るようなそれを、愛おしく思った。




