第二十五話 あなたの手のひら
…今のは、何…?どういうこと…?ヴィンセント様が二人居たわ…
アリシアは、水面に波紋を立てないよう意識しながら離れまでの道を歩いた。マリアンネの侍女が薬を持って現れるかも知れない。今バレたらその場で薬を捩じ込まれるだろう。必死で心を落ち着けながら歩いた。
ヴィンセント様が二人居たけれど…影武者…なのかしら…一人はまるで下男のようだったわ…でも、二人共反論してくれた…子供を堕ろせないと…
部屋に辿り着き息を吐く。
…とにかく、逃げなければ…きっとこの子は殺される。薬を拒んでも、何をされるか分からない。
今部屋から出た振りをして、厨房へ向かう。
「みんな、心配掛けてごめんなさい。ちょっと落ち着きたいから、お茶でも飲まない?」
侍女達はアリシアの顔を見てホッとしたように微笑んだ。喜んでご一緒致します、とお茶の準備をしてくれる。ティーポットに入れたのは、ザドキエルから譲られた眠りの薬茶だ。
…みんな、ごめんね。
外回りの衛兵にも差し入れとしてお茶を届けさせたオルガが戻った後、五人でのお茶会を始める。口に含んだ振りをして、侍女達が眠るのを待つ。十分程で、侍女達はテーブルに伏して寝てしまった。
四人の侍女達に肩掛けを掛けてやり、アリシアは逃げる準備をするために部屋へ急いだ。
輿入れの際に持って来たものは少ないが、全て持ち出すことは不可能だ。特に大切にしていた母から譲られた指輪と、家族三人の写し絵を持ち出す事にした。公爵家の夫人として渡されていた予算は使う間もなく離れに閉じ込められ手付かずだ。当面の生活費には十分過ぎるだろう。他に、路銀になりそうな貴金属と、これから冬を迎えるため冬用の衣服、コート、履物を鞄に詰め窓際に置き、部屋は整頓された状態にした。何事もなかったかのように、消えたかったからだ。そして、時間稼ぎのために扉に鍵を掛けようとした時、扉が開いてヴィンセントが入って来た。
「アリシア」
「…あなたは、どちらなの?」
「…気付いていたのか?」
「いいえ、何も知らなかったわ。何も知らずにいられたら良かったと思うわ…」
「俺は…ヴィンセント様の影だ」
「影?」
「名前はない。そう呼ばれている。アリシア、逃げろ。腹の子を守ってくれ」
「…」
「マリアンネ様は、何をするか分からない。逃げてくれ」
「あなたはどうなるの?」
「アリシア、俺は…きみが好きだ。きみを守りたい。だが、今、此処では守れない。面倒ごとを片付けて、きみを迎えに行きたいんだ」
「…それを、私が待つとでも?」
「きみが俺を待たなくても、きみが平穏に暮らせるようにする」
何故だか涙が溢れて来た。目の前の、自分の事を影と呼ぶこの人は嘘を吐いていない。そう思えた。影は手のひらで涙を拭いた。少しかさついた手のひら。アリシアが好きなのは、この手のひらだ。…この、手のひらなのだ。アリシアは影の手に自分の手を添えた。
「ルーセント様の事は心配するな。マリアンネ様はロイヤルブルーの瞳を持つ子に危害を加えない。アリシア、きみが何処に居ても、必ず見付け出すよ…」
そう言って、影はアリシアに口付けた。
「でも…あなたの瞳もロイヤルブルーだわ。なのにまるで下男のように…」
「そうだ。だから生かされて来た。アリシア、俺はずっと影と呼ばれて来た…俺に名前を付けて欲しい」
「え?」
「頼む」
ヴィンセントと同じ青紫の瞳は揺れていた。今は、いつものこの香りが愛おしい。
…リヒト
アリシアは影をそう呼んで、背伸びをして口付けた。そうして、黒の森に向かって走った。




