第二話 アシュベル・タナトス
「…は?」
アリシアがヴィンセント・スナイデルと婚約?冗談でも笑えねぇ。政略結婚が当たり前の貴族社会とはいえ、公爵家と子爵家では家格差があり結婚は難しいはずだ。アリシアは幼い頃から可愛らしく真面目な努力家だが、公爵夫人の柄ではない。何しろ魔力もほとんどない。
「私は田舎育ちだし、同じ田舎出身の人と結婚したいわ…うちは姉妹二人だけど、どちらが婿を取っても良いし…」
と、アリシアは常々言っていた。それが何故?と話を聞けば、神託だと。夫婦神の思し召しとは言え、アシュベルは納得がいかなかった。
アリシアは俺が幸せにすると、初めて会った時には決めていた。…そう、一目惚れだったのだ。アリシアは家臣の娘だが、自分は五男坊、姉も三人いる。政略結婚の駒としては人数は足りているだろう。フィデール子爵家に婿入りして、実家と共に辺境を守る。俺の役割だ。八歳にして、アシュベルのやりたいことは決まった。
それから八年。貴族院六年生となり、卒業して成人となる前に、父である辺境伯にアリシアとの結婚を申し入れたいと思っていた。その矢先のことだった。
クソ…こっちは八年ずっと好きだったんだぞ。それを横から掻っ攫って行くってのか?冗談じゃない。アリシア以上に好ましい令嬢なんかいない。本人は地味だと言うが、緩く巻いた優しい色の髪も、キラキラ光る瞳も、自分の胸の辺りまでしかない身長も、気取った令嬢達と違い乗馬を楽しみ馬を可愛がるところも、剣を振るえば勇ましいところも、全部全部可愛い。幼馴染の気安さもあるだろうが、アリシアが自分に向ける笑顔は、他の同級生に向けるものとは違う。好ましく思ってくれているはずだと、アシュベルは思っていた。
貴族院はアリシアとヴィンセントの婚約話で持ちきりだ。アリシアは居た堪れない気持ちでいるだろう。こんな時にあいつが逃げる先は決まっている。校内の庭園、その端の端。秋になるとうまい実をつける老木の下。辺境では子供達のおやつになる木の実だが、中央の貴族は魅力を感じないようで、ここを訪れる者はほとんどいない。
…ほら、いた。柔らかい髪を風に揺らしながらアリシアは溜息を吐いていた。
こんな、地べたに座るような娘が公爵夫人だと?俺はそんなアリシアが好きだが、ヴィンセントはスカした野郎だ。嫌な顔をするに決まってる。隣に座れば木漏れ日が眩しく、少し位置をずらすとアリシアに触れてしまった。途端に心臓が跳ねた。
少し気まずさを感じながら、夏季休暇の話題を振ると、騎馬で領地に帰ると言う。こんな令嬢はアリシアしかいない。クソ、だから好きだ。アシュベルは横目でアリシアを見た。優しい茶色の瞳が揺れている。泣きそうなのを我慢しているのだろう。こんな時、どうしたら良いのか分からない。好きな女に婚約者がいる。頭がおかしくなりそうだ。卒業すれば間もなく結婚するのだろう。これが最後の機会だと、一緒に帰郷しようと提案すると、特に迷うこともなく了承してくれた。素直に嬉しい。道すがら攫ってしまおうか。一生領地に帰れなくても良いとすら思う。だが、こんな人目のつかない場所に二人で居て、アリシアに不貞の疑いがかかるのは不本意だ。アリシアはそんな女じゃない。アシュベルは立ち上がり、じゃあなと背中を向けて手を振った。
一筋涙が流れる前に。




