第九十二話 母の祈り
アリシアの実母オフィリアとばぁやがオーグスを訪れたのは、夏の終わりのことだった。訪問することを事前に連絡した際、アリシアから、オーグスではリーシュ・ザドキエルとして接して欲しいとの返答があった。そのためオフィリアは、人前では他人として接することを了承した。
「オフィリア様、お久しゅうございます」
オーグス神殿でアリシアから他人行儀な挨拶を受けたオフィリアは、チクリと胸が痛むような寂しさを感じつつも、子爵夫人として静かに応じた。オーグス神殿を待ち合わせの場所としたのは、リーシュ・ザドキエルの養母フローリアが神徒として仕えているためだ。オフィリアがザドキエル夫妻に挨拶をしたいと希望していたことと、直接アリシアの自宅に訪れるよりも、子爵夫人が伯爵夫人を訪ねた方が、不自然がないことが理由だった。
「遠路はるばる、ようこそお越し下さいました。お会い出来て嬉しく思います」
フローリアも伯爵夫人としてオフィリアを迎えると、居住区の自室へと案内した。アリシアは、会話が漏れないよう密かに音声遮断の魔法をかける。そこで初めて、アリシアとオフィリアは実の母娘としての抱擁を交わしたのだった。
「お母様、お元気そうで安心しました。北の辺境からの長旅は疲れたでしょう」
「あなたに会えると思ったら、疲れなんか感じなかったわ」
「ばぁやもよく来てくれたわね」
「お嬢様のためならば、南の辺境であろうとも参りますよ」
「お母様、ばぁや。こちらがザドキエル先生の奥方で、フローリア・ルーイン・ザドキエル伯爵夫人です。私にリーシュさんの戸籍を預けて下さったおかげで、こうして日々を送ることが出来ているの」
「初めてお目にかかります。アリシアの母オフィリア・アヴァンス・フィデールにございます。これまで娘をお支え下さいましたこと、母として心よりお礼申し上げます」
「お顔をお上げ下さいませ、オフィリア様。わたくしは娘を亡くした身。それを長らく認めることが出来ず、神殿で神に仕えているのですけれど…アリシア嬢がいて下さるおかげで毎日を楽しく過ごせております…お礼を言うのは私の方なのです」
フローリアはオフィリアの手を握った。
「アリシア嬢がいて、レグルスが生まれて…この神殿はとても明るくなりましたのよ。レグルスの成長を見守ることは、神殿に身を寄せる女性達にとっても大きな心の支えとなっているのです。わたくしにとっても…娘から頼られたようで、とても嬉しい心持ちになったのです…」
「そのようなお言葉を頂けるなんて…娘達が皆様に温かく迎えられておりますこと、ただただありがたく…何とお礼を申し上げたら良いのか…」
オフィリアは思わず胸を詰まらせた。そんなオフィリアを、ばぁやがそっと支えている。その場にいる誰もが目に涙を浮かべていた。
そういえば、まだお茶も出していなかったわ、とフローリアが少し笑い、四人はようやく腰を下ろした。アリシアが調合した果物茶の甘い香りが漂う。長旅で疲れているであろう母とばぁやのために、少し甘めのお茶を用意した。
「まあ。甘くて美味しいわ」
「このお茶はレグルスも好きなの。連れて来ても良いかしら」
「ええ、もちろん。レグルスにも早く会いたいと思っていたの」
そうして、小さく扉を叩く音がして、開いた隙間から、ひょっこりとレグルスが顔をのぞかせた。
「こんちにわ。おばあちゃん、おばあちゃま」
「あらまあ!可愛らしいご挨拶だこと。お上手にできましたね」
「春にお会いした時よりも、また少し大きくなられて」
「本当に、幼子の成長は早いこと。少し会わないうちにぐんぐん大きくなるわね」
「アリシア様の幼い頃に、よく似ておいでですね」
「ええ。ふっくらした頬のなんと可愛らしいこと」
「ガルヴァロス公も私の小さな頃によく似てるって仰ってたけど、そんなに似てる?」
アリシアは嬉しそうに母とばぁやに尋ねた。
「ええ、とっても似てるわ」
オフィリアもばぁやも、アリシアの最初の子ルーセントには、葬儀の際に一度会ったきりだ。レグルスとこうして触れ合えることが、どれほど尊いことか。そして、オフィリアにはずっと気にかかっていたことがあった。この先、ルーセントをどうするつもりなのかということだ。そう尋ねると、アリシアは少し辛そうに眉を下げた。
「…ルーセントは、このままヴィンセント様とアナベル様にお任せするつもりです」
「あなたはそれで良いの?」
「はい。レグルスが生まれるまでは、必ず迎えに行きたいと思っていました。けれど、レグルスを産み育てていくうちに、考えが変わりました…ルーセントは、お二人に愛されて育っています。アナベル様は、ルーセントを残して死んだ私の分もという思いで育てて下さっていました」
「…アナベル様はあなたが生きていることをご存じではなかったのね」
「そうです…ルーセントはアナベル様を母と慕っています。引き離すことは出来ませんでした」
オフィリアはアリシアを抱き締めた。ばぁやも、フローリアもアリシアの胸の内を思い目を潤ませていた。
「おかあちゃん、だいじょうぶ?かなしいの?」
小さな手でアリシアのスカートを握るレグルスに、アリシアはにこりと笑ってしゃがみ込んだ。
「いいえ。レグルスがいてくれるから悲しくないわ」
レグルスを抱き上げて笑うアリシアに、オフィリアはもう何も言えなかった。アリシアが自ら決めたことならば、それを尊重し、見守ろう。今度こそ、幸せな結婚生活を送れますようにと、胸の内でそっと祈るのだった。




