第九十一話 母の望み
ルーシィの養子縁組が無事に整ったと聞いて、アリシアはホッと胸を撫で下ろした。これで、二人の結婚の壁は一つ取り払われたことになる。タナトス辺境伯が、鼓舞の魔力を知らないはずもない。ルーシィの人柄を知れば、きっと反対はなさるまい。良い方に進むだろうと、アリシアは自分のことのように嬉しく感じた。
「そうか。ルーシィの養子縁組はうまくいったんだな。良かったな」
「ほんっとうに良かったわ!ルーシィはとっても良い子だけど、アシュベルは高位貴族でしょう。身分の差を埋めるのって大変だと思うの。私だって、公爵家の子息との結婚には躊躇したもの…」
「…今も躊躇してるのか?」
「いいえ。あなた以外、考えられないわ」
リヒトは少し照れ臭そうにしながら、アリシアを抱き寄せて額にキスを落とした。髪を撫で、静かに見つめ合う。やがて、どちらからともなく距離を縮め、唇を重ねた。アリシアはリヒトの胸に顔を埋めながら、確かな幸せを感じていた。
フィデール子爵夫人オフィリアは、ばぁやと共にオーグスへと向かっていた。愛する娘の花嫁支度を整えるためだ。結婚を許したものの、夫であるフィデール子爵は、なお思うところがあるのだろう。どこか煮え切らない様子だ。結婚式を挙げずとも、役所に婚姻届を出しさえすれば、夫婦にはなれる。だがオフィリアは、娘には今度こそ幸せな夫婦生活を送ってもらいたかった。
アリシアの最初の結婚生活を思えば、悔しさが込み上げてくる。どれほど辛い思いをしたことだろう。産後間もなくルーセントを奪われ、死んだことにされて離れに閉じ込められていたという事実。葬儀まで執り行われ、未だに墓石もそのまま残されている。
アリシア・フィデール・スナイデル 享年十七
その墓石の前で、どれほど涙を流したことか。許せぬ思いはオフィリアも同じだった。だが、アリシアはとっくに前を向いている。親である自分達が立ち止まっている訳にはいかない。
…そう、アリシアは公的には死んでいる。新しい戸籍、リーシュ・ザドキエルとして生きている。それが今のアリシアの名前なのだ。神託もリーシュの名を示し、国王陛下もその名を生かすようお命じになった。であれば、リーシュ・ザドキエルとしての嫁入り支度を整えてあげたい。それがオフィリアの望みだった。
「ばぁや、長旅に付き合わせてごめんなさいね。体は辛くないかしら」
「何を仰います、奥様。お嬢様の嫁入り支度を整えるのは二度目なれど、このおばばにとって望外の喜び。辛いことなどあろうはずがございません」
ばぁやの言葉に、オフィリアの頬はふっと和らいだ。
「奥様、アリシア様なら大丈夫ですよ。リヒト様とレグルス様と、仲睦まじいご様子のように見えました」
「…そうよね」
「…ヴィンセント様とも…心を通わせようとなさっておいででした…お二人で言葉を交わしながら、少しずつ歩み寄っておいでだったのです…何故このようなことになったのか、マリアンネ王女殿下のお心のうちは、このおばばには分かりかねますが…」
「……そうね。あの子はもう前を向いているのだから、わたくしたちは見守らなくてはね。ただ…あの子の中ではもう五年が過ぎているのでしょうけれど…わたくしたちが割り切るには、まだ時が足りないの」
ばぁやは、しわしわの手でオフィリアの手を握り、優しくさすった。
ヴィンセントとの仲は悪くなかった。それはアリシアから届いていた手紙を読めば分かった。読みながら笑みが溢れたほどだ。だからこそ、ヴィンセントの裏切りが許せなかったのだ。アリシアが身籠って間もなく、アナベルも身籠っていたという事実が、フィデール子爵夫妻を打ちのめした。たとえそれが、マリアンネ王女の差金であったとしてもだ。
オフィリアはきつく目を閉じ、ばぁやの手を握り返した。その手はかすかに震えていた。
「奥様、さぁ、やり切れぬ涙はこれきりにいたしましょう。これから流す涙は、嬉し涙にございますよ」
「ええ、そうね」
窓の外に目をやれば、遠くに町が見えた。アリシアが住むオーグスの町は、もう間もなくだ。
オフィリアはそっと涙を拭い、静かに顔を上げた。




