第八十四話 思い巡る
晩餐の後、部屋に戻ったリヒトは大きく息を吐きながら寝台に倒れ込んだ。
「あぁぁ…緊張した…」
神託が降りているとはいえ、アリシアの両親が許してくれるとは限らない。それだけのことをしてしまったのだ。恨まれ、憎まれていても仕方がない。フィデール子爵は、思うところはあると言っていた。それは、子爵が示しうる精一杯の抗議なのだろう。以前、父スナイデル公爵が話していた通りだ。フィデール子爵は謝罪を受け入れ、婚姻の申し入れにも頷いてくれた。だが、王統に連なる公爵家からの申し入れを、子爵家が固辞出来るだろうか…家格の違いから受け入れざるを得なかっただけではないか。しかも自分は双子の弟だ。本当に許してもらえたのか分からず、リヒトは不安に感じていた。
…だが、それでも…
アリシアと離れることなど、考えられなかった。この先、真心を尽くしていこう…心から許されたと思える日が来るように。
ああ、アリシアに会いたい。つい先程まで一緒にいたというのに。すでに子がいるとはいえ、まだ正式な夫婦ではない二人は寝室が別だ。これも子爵の意思表示なのだろう。リヒトは一人寝の寝台を広く、冷たく感じていた。
影と呼ばれ暗がりを生きていた頃は、雨さえ凌げればどこであろうと眠ることが出来た。欲を吐き出せさえすれば、女など誰でも良かった。人肌を温かいと思ったこともなかった。ヴィンセント様としてアリシアと接し、産後しばらくしてからは閨を共にするようにもなった。そのことを憐れとは思えど、罪悪感はなかった。
俺達はマリアンネ様に囚われた者同士だ。仮初の夫婦として共に檻の中で生きていくのだと、身勝手な連帯感に酔っていたのだ。
アリシアを愛おしく思い始めたのはいつだったか。
ヴィンセント様と夜の作法を合わせたことはない。アリシアと初めて共寝をした夜。しばらく肌を合わせていないとはいえ、いつもと違うとは思わなかったのだろうか…柔らかく滑らかで、花の香りのするアリシアの肌に、ヴィンセント様も触れたのだと思うと、嫉妬でおかしくなりそうだ。神託を違えさえしなければ、他の男に触れさせることなどなかったのに。
だが、ヴィンセント様はアリシアの魔力を感じ取れないと言っていた。あの肌から香る優しい花の香りを知っているのは俺だけだ。
ルーセント様を奪われ、沈みがちなアリシアが笑った時。俺の香りを好きだと言い、この手を好きだと言ってくれた時。もうその時には俺にとってかけがえのない存在になっていたと思う。…いや、きっと最初に会ったあの日。悪阻で青い顔をしたアリシアが、俺が持って来た果物を美味しいと言って食べた。もうその時には心を奪われていたのだろう。その感情を何と呼ぶのか分からないまま、いつしか離れを訪う夜を待ち遠しく感じ、お帰りなさいと迎えてくれるアリシアを可愛いと思っていた。
アリシアはいつから俺がヴィンセント様ではないと気付いていたのだろう。あの明け方…初めてアリシアに好きだと告げたあの朝。あの時、アリシアは私も…と確かに言った。口付けで塞ぎそれ以上話せなくしたが、唇は動いていた。アリシアが好きだと言った相手は…いや、俺のことだと思いたい。ルーセント様を妊娠したことが分かってからは、ずっと俺と一緒だったのだから。
レグルスを妊娠した時、何故あんなに悲しんでいたのだろう。二人目が欲しいと言って泣いていたのに。その時にはもう、ヴィンセント様の裏切りを知っていたのかも知れない。そう…恐らく知っていたのだ。アリシアが離れから逃れたのはその直後だった。俺がマリアンネ様に呼ばれ、戻って来るのが少しでも遅かったなら、アリシアは俺に名をくれることなく姿を消していただろう。
もう間もなく雪が降り始める冬の日にいなくなったアリシア。どこかで凍えていないかと、探し回ったが見付けることが出来なかった。父スナイデル公爵に全てを打ち明け、打ち明けられ、治水設備の修復作業とルクセン領の水害復旧に時間を要し、古代魔法の解除のため向かったエーデルハイドで翼竜の結晶に囚われた。何をやっているのだ、俺は。面倒事を片付けて迎えに行きたいなどと、よく言えたものだ。結局、俺は何も出来なかった。
泣いてばかりだと思っていたアリシアは、強く、逞しかった。檻から抜け出し、自力で味方を見付け、生きていくために資格を取り、レグルスを産み育てていた。俺は檻から抜け出そうともしなかった。抜け出せるはずもないと、思い込んでいたのだ。
「…もらってばかりだ」
アリシアが俺にくれたもの。俺は何を返せるだろう。アリシアと一緒に選んだ指輪を撫でれば、ふわりと花の魔力の香りがする。出来上がった指輪を一緒に受け取りに行き、魔力を籠め贈り合った。
きみに幸せの風が吹くと良い。優しい風が吹くと良い。災いも悲しみも、全部吹き飛んでしまえば良い。
そう願いながら、俺は眠りに落ちていった。




