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香川編

 高松に着いたのは、朝だった。


 フェリーで渡ってきた。船の上で夜を明かして、デッキに出ると海の向こうに島の輪郭が見えた。朝靄の中に、陸地がある。それがゆっくり近づいてくる感じが、悪くなかった。


 港に降りると、潮の匂いがした。


 空が白かった。曇っているのか、朝の光がまだ薄いのか、判断がつかなかった。でも寒くはなかった。瀬戸内の冬は、東北より穏やかだとどこかで読んだ気がした。本当だった。


 港から少し歩いて、街に出た。


 朝の七時で、人は少なかった。シャッターが閉まったままの店が多かった。でも一軒だけ、明かりのついている店があった。


 のれんに「うどん」と書いてあった。


 入った。



 引き戸を開けると、湯気があった。


 カウンターが六席、テーブルが一つ。先客が二人いた。どちらも地元の人らしかった。作業着を着た男性と、買い物袋を持ったおばあさん。二人とも黙って食べていた。


 ミナもカウンターに座った。


 メニューは壁に手書きで書いてあった。かけうどん、ざるうどん、釜玉、釜揚げ。値段が安かった。かけうどんが三百五十円だった。


「かけうどんをください」


 店主は返事をしないで、すぐに動いた。六十代くらいの男性で、手際がよかった。大きな鍋からうどんを引き上げて、出汁をかけて、ネギを乗せた。それだけだった。


 出てきたうどんを、一口食べた。


 出汁が、薄い色なのに味が濃かった。うどんは柔らかかった。でも芯があった。


 美味しかった。


 朝に食べるものとして、これ以上ないくらい正しい気がした。なぜ正しいと思うのかは分からない。ただ、朝にこれを食べることが、当然のことのような気がした。


 作業着の男性が席を立った。お金をカウンターに置いて、「ごちそうさん」と言った。店主は「おおきに」と言った。


 そのやり取りが、短かった。短いのに、十分だった。


 ミナは残りのうどんを食べた。全部食べてから、出汁も飲んだ。



 お金を払うとき、店主が少し話しかけてきた。


「旅の人ですか」


「はい」


「どこから」


「フェリーで来ました」


 店主は頷いた。それ以上は聞かなかった。


「うどん、おいしかったです」とミナは言った。


「毎日食べるもんですから」と店主は言った。「特別なもんじゃないですよ」


 毎日食べるもの。


 ミナはその言葉を受け取った。


 特別じゃないから、毎日食べられる。毎日食べるから、当たり前になる。当たり前になるから、朝に食べることが正しい気がする。そういうことかもしれない、とミナは思った。


 店を出た。空が少し明るくなっていた。



 宿を探しながら、街を歩いた。


 高松の街は、碁盤の目みたいに道が整っていた。大通りと細い路地が交差していた。アーケードがあった。仙台のアーケードより少し小さかったが、同じ種類の空気があった。屋根があって、雨が降っても歩けて、両側に店がある。


 アーケードの中に、古い喫茶店があった。


 ミナはうどんを食べたばかりだったが、コーヒーを飲もうと思って入った。


 店の中は昭和の雰囲気だった。赤いビロードのシートのイス、木のカウンター、壁に古い映画のポスター。マスターは七十代くらいで、無口だった。


 コーヒーを頼んだ。


 窓際の席に座った。窓からアーケードが見えた。朝の時間で、人が少しずつ増えてきていた。シャッターが開き始める店もあった。街が目を覚ます時間だった。


 コーヒーが来た。深煎りで、苦かった。うどんの後に飲む苦いコーヒーが、なぜか合った。


 しばらく、ただ窓の外を見た。


 何かをするわけじゃない。ただ見た。


 人が通る。自転車が通る。シャッターが開く。店主らしい人が、店の前を箒で掃く。猫が一匹、アーケードの端を歩く。


 それだけのことが続いた。


 ミナはそれを、ぼんやりと見ていた。


 こういう時間が、旅をしていると増えた。東京にいた頃は、何もしない時間が怖かった。何かをしていないと、自分がどこにいるか分からなくなる気がした。でも旅をしていると、ただ景色を見ている時間が自然に生まれる。


 それが今は、悪くない。



 宿が見つかったのは昼前だった。


 港の近くの民宿で、一泊四千円。夕飯付きにした。


 部屋は一階で、窓を開けると小さな庭があった。庭に柿の木があって、実が一つだけ残っていた。鳥が食べ残したのか、それとも誰かが一つだけ残したのか、分からなかった。


 オレンジ色の柿が、枯れた枝の先にあった。


 メモ帳を取り出した。


「高松に着いた。朝にうどんを食べた。柿が一つだけなっていた」


 書いてから、柿の一行が気に入った。うどんより柿の方が、今日の気分を表している気がした。なぜかは分からない。ただそう思った。


 閉じた。



 午後、ミナは街を歩いた。


 高松城の跡があった。海に面した城で、お堀に海水が引き込まれていた。鯛が泳いでいると、看板に書いてあった。覗いてみると、本当に泳いでいた。


 鯛がお堀にいる、とミナは思った。


 それが面白いのかどうか、自分でも判断がつかなかった。でも不思議ではあった。城と鯛と海が、一つの場所にある。そういう場所が、日本にはまだあるんだと思った。


 お堀の縁を歩いた。


 水面が光っていた。鯛がたまに水面近くまで上がってきた。何を考えているのか、魚のことは分からない。でも泳いでいた。ただ泳いでいた。


 ミナも、ただ歩いていた。


 目的はない。どこかへ行こうとしているわけじゃない。ただ、今日この場所にいる。


 それだけのことだ。



 夕方、民宿に戻ると、女将が夕飯の準備をしていた。


 六十代くらいの女性で、よく喋る人だった。


「どこ行ってきたんですか」


「城跡と、アーケードを歩きました」


「うどんは食べましたか」


「朝に食べました」


「一軒だけじゃもったいないですよ。香川の人間は一日に何度も食べますから」


「何度も食べるんですか」


「朝うどん食べて、昼もうどん食べて、夜は違うもの食べて、でもまた翌朝うどん食べて。そういうもんです」


 ミナはそれを聞いて、少し考えた。


「飽きないんですか」


「飽きないですね」と女将はあっさり言った。「飽きるって、特別なものだから飽きるんですよ。毎日食べるものは飽きない。空気に飽きないのと同じです」


 空気に飽きない。


 ミナはその言葉を受け取った。


 朝にうどんを食べたとき、正しい気がした、と思った。その正しさは、ここから来ているのかもしれない。毎日のことだから、当たり前のことだから、正しい。特別じゃないから、続けられる。


「明日も食べてみます」とミナは言った。


 女将は嬉しそうな顔をした。「どうせなら違う店に行ってみて。みんな少しずつ違いますから」



 夕飯は、白身魚の煮付けと、里芋の煮物と、ご飯だった。


 うどんではなかった。でも美味しかった。


 食べながら、女将がいろんなことを話してくれた。島のこと、瀬戸内の海のこと、昔の高松のこと。ミナはそれを聞いた。相槌を打ちながら、聞いた。


 質問はあまりしなかった。でも女将は話し続けた。聞いてくれる人がいると、自然に話が続くらしかった。


 ミナはこういう時間が嫌いじゃない。


 誰かの話を聞いている時間。自分のことを話さなくていい時間。相手の話の中に、その人の人生がある。ミナにはない過去が、誰かの言葉の中にある。


 それを聞いている時間が、旅の中で一番、落ち着く気がした。



 夜、部屋に戻った。


 窓の外の柿を見た。暗くて見えなかった。でもそこにあることは分かった。


 ベッドに座って、メモ帳を開いた。


 昼に書いた記録の下に、続きを書いた。


「城のお堀に鯛がいた。女将に空気に飽きないという話を聞いた」


 書いてから少し読んだ。


 空気に飽きない。


 自分に置き換えると、どうだろう、とミナは思った。


 旅に飽きるかどうか。続けていれば飽きるのかもしれない。でも今のところ、飽きていない。毎日違う場所にいて、毎日違う人に会って、毎日違うものを食べる。それが続いている。


 でも、違うからいいのか。同じことでもいいのか。


 うどんの話を思い出した。毎日同じものを食べても飽きない。空気と同じように。


 旅も、もしかしたらそういうものになるのかもしれない。特別なことではなくて、毎日のことになる。そうなったとき、まだ続けているかどうか。


 分からなかった。


 でも今日は、まだ飽きていない。それだけは確かだった。


 メモ帳を閉じた。


 明日の朝、また違う店でうどんを食べよう、とミナは思った。


 その小さな予定が、今夜のミナには十分だった。


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