仙台編
仙台に着いたのは、昼過ぎだった。
駅を出ると、木が多かった。
都市なのに、木がある。駅前の大通りに、街路樹が並んでいた。葉が落ちかけていて、枝だけになっているものもあった。でもその枝の多さが、夏には緑の天井になるんだろうと思った。杜の都、という言葉を、どこかで読んだ気がした。
なるほど、とミナは思った。
人は多かったが、東京ほどではない。歩く速度も、少しだけ違う気がした。速いことは速いけど、少しだけ余白がある。気のせいかもしれない。でもそう感じた。
宿は取っていなかった。歩きながら探すつもりだった。
大通りを少し歩いて、アーケード街に入った。
長いアーケードだった。屋根がついていて、雨が降っても濡れない。両側に店が並んでいる。飲食店、服屋、薬局、本屋。どこにでもある店が並んでいるのに、なんとなく仙台らしい空気があった。何が仙台らしいのかは、うまく説明できない。ただ、ここはここの街だ、という感じがした。
アーケードを歩きながら、宿を探した。
安い宿が見つかったのは、アーケードから少し外れた路地だった。
古いゲストハウスで、入口に手書きの看板が出ていた。一泊二千八百円。素泊まり。
フロントに若い女性がいた。二十代前半くらいだった。
「一泊お願いします」
「はい。お名前を」
「ミナです」
女性はミナの名前をノートに書いた。フロント横の棚に、観光パンフレットが並んでいた。松島、秋保温泉、仙台城跡。ミナはそれをなんとなく見た。
「どちらからですか」と女性が聞いた。
「旅をしていて。いろんなところから来ています」
「一人旅ですか」
「はい」
女性は少し目を輝かせた。「いいですね。私もいつかやってみたいんですけど、なかなか踏み出せなくて」
「踏み出す、というより」とミナは言った。「気づいたら旅になっていた感じで」
「どういうことですか」
「仕事を辞めて、次を決めないまま出てきたんです」
女性はしばらく考えてから「それも踏み出しているんじゃないですか」と言った。
ミナは少し考えた。
そうかもしれない、と思った。
部屋は四人部屋のドミトリーだった。今日は他に客がいないらしく、一人で使えることになった。
ベッドにリュックを置いて、窓を開けた。
向かいにビルがあった。でも空は見えた。東京で泊まったときより、空が広かった。高いビルが少ないからだろう。
メモ帳を取り出した。
今日の日付を書いた。「仙台に着いた。木が多かった」。
書いてから少し読んだ。それだけじゃ何も分からないな、と思った。でも今日はまだ始まったばかりだ。夕方にまた書けばいい。
閉じた。
街へ出ることにした。
アーケードを端まで歩いた。
途中、古本屋があったので入った。
棚を見て回る。文庫、単行本、雑誌、漫画。ミナは旅の間、本は買わない。荷物が増えるから。でも古本屋を見て回るのは好きだ。どんな本が並んでいるかで、その街の雰囲気が少し分かる気がする。
仙台の古本屋には、東北に関する本が多かった。郷土史、方言の本、東北の山の写真集。それから、震災に関する本もあった。
ミナはその棚の前で少し止まった。
震災の本を、何冊か手に取った。写真が多いものだった。パラパラとめくった。
見たことのある景色が、あった。
海岸線。瓦礫。泥。そこに立っている人たち。
見たことがある、と感じた。
旅の途中、熊本でボランティアをしたことがある。あのとき、土砂の片づけや避難所の作業が、なぜか身体に入っていた。なぜ慣れているのか分からなかった。今も分からない。
この写真の景色も、どこかで見た気がした。
でも確かめる方法はない。
ミナは本を棚に戻した。買わなかった。ただ、少しの間、その棚の前に立っていた。
アーケードを出て、広い通りに出た。
ケヤキ並木が続いていた。葉が半分落ちていて、残った葉が黄色く色づいていた。光が葉の間を通って、地面に模様を作っていた。
きれいだ、とミナは思った。
その感情は、珍しく早かった。見た瞬間に、きれいだと思った。
並木道を歩いた。同じ方向へ歩いている人もいれば、逆方向から来る人もいた。犬を連れた人がいた。ベンチに座って本を読んでいる人がいた。
誰もミナを見なかった。
それでよかった。
並木道の端まで歩いて、また戻った。戻りながら、さっきと同じ景色をもう一度見た。行きと帰りで、光の角度が少し違った。同じ並木なのに、少し違う顔をしていた。
そういうことが、旅をしていると何度もある。同じ場所を、時間を変えて見ると、別の場所みたいになる。
夕方、牛タンを食べた。
仙台に来たら食べようと思っていた。以前、仙台に来たとき——旅を始めてすぐの頃——に食べて、美味しかったから。
同じ店ではなかった。でも牛タンは牛タンだった。厚切りで、塩味で、嚙み応えがある。麦飯と、テールスープがついていた。
全部食べた。
隣のテーブルに、家族連れがいた。父親、母親、子供が二人。子供たちが牛タンを嬉しそうに食べていた。父親が「美味しいか」と聞いた。子供たちが「美味しい」と答えた。
それだけの会話だった。でもその「美味しい」が、本当に美味しそうだった。子供の「美味しい」は、全部が入っている。
ミナの「美味しい」は、どうだろう。
確かめるように、もう一口食べた。
美味しかった。それは本当だった。
夜、ゲストハウスに戻ると、フロントの女性がまだいた。
「どうでしたか」と女性が聞いた。
「牛タンを食べました。ケヤキ並木を歩きました」
「定番ですね」と女性は笑った。「でも定番には理由がありますから」
「そうですね」
女性は少し迷うような顔をしてから、言った。
「さっき聞いた話、気になっていて。仕事を辞めて、次を決めないまま出てきたって」
「はい」
「怖くなかったですか」
ミナはしばらく考えた。
「怖さの基準が、よく分からなくて」
「基準?」
「何と比べて怖いのか、が分からないんです。だから怖いかどうかも、あまり分からない」
女性は少し首を傾げた。でも否定しなかった。
「なんか、いい考え方ですね」と女性は言った。「私はすぐに最悪の場合を考えてしまって」
「最悪の場合を考えることは、悪くないと思います」とミナは言った。「備えられるから」
「でも動けなくなりませんか」
「なるときもあります」
女性は少し笑った。
「正直ですね」
ミナは特に何も言わなかった。正直かどうかも、よく分からなかった。ただ、思ったことを言っただけだ。
「旅、続けてください」と女性が言った。「なんか、応援したくなりました」
「ありがとうございます」
それだけだった。
部屋に戻った。
ベッドに座って、メモ帳を開いた。
朝に書いた一行の下に、続きを書いた。
「ケヤキ並木を歩いた。古本屋で震災の写真を見た。牛タンを食べた。フロントの人と少し話した」
書いてから、「古本屋で震災の写真を見た」という一行が気になった。
他の一行より、少し重かった。
消そうかと思った。でも消さなかった。あの棚の前で感じたことは、あった。それが何なのかは分からない。でも、あった。
消す理由がない。
メモ帳を閉じた。
明日、早い時間に出発するつもりだった。どこへ行くかは、まだ決めていない。
電気を消した。
部屋が暗くなった。外から、街の音が少し聞こえた。車の音、遠くの話し声、風の音。
仙台の夜は、静かだった。東京より静かだった。暗かった。星が見えるかもしれないと思って、窓を少し開けた。
見えた。
少しだけ、見えた。
ミナはしばらくその星を見た。
明日はどこへ行くか、決めていない。でも今夜ここにいる。今夜だけ、この星が見えた。
それだけのことが、今日のミナには十分だった。




