ブラック企業編3
一月の終わり、ミナは部屋を引き払った。
引っ越し業者は使わなかった。荷物がリュックひとつに収まったから。
大家さんに鍵を返すとき、「長い間ありがとうございました」と言った。大家さんは「お体に気をつけて」と言った。それだけだった。三年間の別れがそれだけで終わった。
外に出た。冬の朝で、空気が冷たかった。
リュックを背負うと、肩に重さがかかった。全財産の重さだ、とミナは思った。軽かった。
駅まで歩いた。
急がなかった。どこかへ急ぐ理由がなかった。荷物は軽いし、時間もある。
商店街を通った。朝の時間で、シャッターが閉まってる店が多かった。パン屋だけが開いていて、甘い匂いがした。ミナはそこでクリームパンをひとつ買った。歩きながら食べた。甘かった。
川沿いの道を通った。川面に朝の光が当たっていた。カモが二羽、水の上にいた。動かなかった。じっとしてる鳥を見てると、時間がゆっくり流れる気がした。ミナはしばらく立ち止まって、カモを見た。
カモはミナを無視していた。ミナもカモを特に気にしなかった。ただ、いた。それだけだった。
駅に着いた。
平日の朝で、人が多かった。スーツの人、学生、旅行者。みんな何かを目指して歩いていた。行き先があった。
ミナには行き先がなかった。
でも今日は、それが当然のことだった。行き先がないのだから、決めればいい。
券売機の前に立った。
路線図を見た。色とりどりの路線が四方に伸びている。新幹線の路線図もある。日本全国に線が走っている。
どこへ行くか、という基準が自分にない。好きな場所もない。行きたい場所もない。どこかへ行ったことがある記憶もない。
だったら、何を基準にするか。
ミナはしばらく路線図を見た。
なんとなく、目についた路線があった。どこでもよかった。理由なんてない。ただ、目についた。
それだけのことだ。
所持金は少ない。新幹線より在来線の方が安い。在来線の切符を買った。どこまでかは決めない。気が向いたところで降りればいい。
ホームで電車を待った。
ベンチに座って、リュックを足元に置いた。隣の人は携帯を見ていた。向かいの人も携帯を見ていた。ミナも携帯は持っているけど、見なかった。
ホームの端から端を眺めた。人が行き来している。大きな荷物を持った人もいる。子供連れもいる。急いでる人もいる。ゆっくり歩いてる人もいる。
みんな、どこかへ向かっている。
ミナも今日から、どこかへ向かう。
どこへかは、まだ分からない。でも向かうことは決まった。それで今日のところは十分だ。
電車が来た。ドアが開いた。人が降りてきた。ミナは乗り込んだ。
窓側の席が空いていたので、そこに座った。リュックを膝の上に乗せた。
電車が動き始めた。
街が流れていった。
ビルが続く。マンションが続く。道路に車が並んでいる。信号が変わる。人が横断歩道を渡る。
ミナはそれを見た。
去ることへの名残惜しさも、新しい場所への期待もなかった。ただ、景色が流れていった。
窓ガラスに自分の顔が映っていた。
ミナはその顔を見た。「ああ、これが私か」と、また確認した。
今日も同じ顔だ。昨日も同じだった。明日も同じだろう。記憶がなくても、顔は変わらない。
それがどういう意味を持つのか、分からなかった。
ただ、そこにあった。
しばらくして、車内が空いてきた。
隣の席が空いた。ミナはリュックを膝から下ろして、隣に置いた。背もたれに体を預けた。
窓から見える景色が変わった。ビルが減り、家が減り、田んぼが増えた。冬の田んぼは刈り取られていて、茶色い地面が広がっている。遠くに山が見えた。
ミナはその山を見た。
名前は知らない。登ったことがあるかどうかも知らない。
何も知らないことが、今日は不思議と軽かった。
いつもは「知らない」が少し重かった。自分のことを知らない、過去を知らない、どこから来たか知らない。その「知らない」が積み重なって、重くなっていた。
でも今日は違う。
知らないから、どこへでも行ける。知らないから、どこも初めての場所だ。知らないから、何も失わない。
そう考えることにした。正しいかどうかは分からない。でも今日のところは、そう思うことにした。
乗り換えのために一度降りた。
次の電車まで十分ほど時間があった。ホームのベンチに座って、メモ帳を取り出した。
表紙を開いた。白紙のページ。
今日の日付を書いた。それから一行。
「東京を出た。どこへ向かうか、まだ分からない」
それだけ書いて、閉じた。
たったそれだけで、今日がどこかに残った気がした。
たとえまた記憶を失っても、このメモ帳があれば、今日ここにいたことが分かる。
電車が来た。
次の電車は、ガタガタと揺れた。
在来線の揺れだ。線路の継ぎ目のたびに体が揺れる。ミナはその揺れを感じながら、外を見た。
景色がさらに変わった。田んぼがもっと広くなった。農家の家が点在している。軽トラックが畑の横に止まっている。
隣に、老人が座ってきた。七十代くらいの男性で、大きなバッグを持っていた。帽子をかぶっていた。
「寒いですね」と老人が言った。
ミナは少し驚いた。話しかけられるとは思っていなかった。
「そうですね」
「どちらまで?」
「決めていないんです」
老人は少し目を丸くした。「決めていない?」
「どこかへ行こうと思って出てきたんですけど、どこかはまだ決めていなくて」
「いい旅だ」と老人は言った。
「そうでしょうか」
「そうですよ。行き先を決めると、そこへ着いたら終わりになる。決めないと、終わりがない」
ミナはその言葉を聞いて、少し考えた。
「終わりがないのは、よいことですか」
「人によりますかね」と老人は言った。「でも旅は、終わりがない方が楽しい。着くことより、進んでいることの方が面白い。私はそう思っています」
老人は次の駅で降りた。「よい旅を」と言った。ミナは「ありがとうございます」と答えた。
老人が降りていく後ろ姿を見た。
進んでいることの方が面白い。
その言葉が、頭の中に残った。
さらに乗り継いで、電車は進んだ。
街から離れるにつれて、景色がどんどん変わった。
田んぼが広くなった。山が近くなった。川が見えた。橋を渡った。また田んぼ。また山。
窓の外を流れていくものを、ミナはただ見ていた。
どこへ向かっているのか、分からない。地図を持っていないし、調べてもいない。電車の行き先表示は見たけど、その先がどんな場所かは知らない。
でもそれでいい、とミナは思った。
知らない場所へ向かっている。それだけのことだ。
空が曇ってきた。
冬の曇り空は低い。雲の底が地面に近い。山の頂が雲に隠れている。
ミナは窓ガラスに額を近づけた。息が白く曇った。指で拭くと、外の景色が少し鮮明になった。
自分がどこにいるのか、地名は分かる。でも「どこから来たか」という感覚は、今日も分からない。
でも今日は、それでいいと思えた。
どこから来たかより、今どこに向かっているかの方が、今日は大事な気がした。
老人の言葉を思い出した。
進んでいることの方が面白い。
ミナにとっての「進む」は、どういうことか。
過去を探すことか。それとも、今を生きることか。
答えは出なかった。でも問いが生まれたことが、なんとなく、いい気がした。
夕方近くに、ある駅で降りた。
特に理由はない。窓の外を見ていたら、「降りてみようか」という気になった。それだけだ。
駅のホームに降り立つと、空気が違った。さっきまでいた場所より、冷たさの種類が違う。乾いてる冷たさじゃなくて、重い冷たさ。どこかに水がある気がした。
一度、大きく息を吸った。
冷たい空気が肺に入った。それがなぜか、悪くなかった。
駅の外に出た。
少し歩いたら、海が見えた。
灰色の海だった。波は穏やかだった。カモメが二羽、波の上を飛んでいた。
ミナはしばらく、海を見た。
来たことがあるかどうか、分からない。でも今、ここにいる。それだけは確かだ。
ポケットからメモ帳を出した。今日の日付の下に、もう一行書いた。
「海があった」
書いて、リュックに仕舞った。
宿を探しながら、ミナは歩いた。どこへ行くかは、明日決めればいい。今日はここにいる。それで十分だ。
こうして、ミナは旅に出た。




