ブラック企業編2
倒れたのは、木曜日の午後だった。
朝から体の芯が重かった。いつもと違う重さ。いつも体は重いんだけど、この日の重さはちょっと種類が違った。水を含んだ布団みたいな、どこかじっとりした重さだった。
それでも出勤した。
出勤しない、という選択肢がミナにはなかった。
午前中は仕分けの作業をした。段ボールを開けて、中身を確認して、棚に並べる。何百回も繰り返してきた動作だから、考えなくてもできる。ミナはそういう作業が得意だった。考えなくていいから。
昼に田村さんが声をかけてきた。
「今日、顔色悪いわよ」
「そうですか」
「お弁当、ちゃんと食べた?」
「食べました」
嘘だった。弁当箱は持ってきてたけど、半分しか食べてなかった。食欲がなかった。口に入れると、なぜか飲み込めなかった。
田村さんはしばらくミナの顔を見て、「無理しないでね」と言った。
「ありがとうございます」
無理、という言葉が引っかかった。無理しているのかどうか、分からない。これが普通なのか無理なのか、比べるものがないから判断できない。
午後の仕事は伝票の照合だった。
一枚の伝票に何十もの数字が並んでいる。それを別の書類と照らし合わせる。細かい作業は嫌いじゃない。むしろ得意な方だ。でもこの日は、数字が滲んだ。
目が、焦点を合わせることを嫌がっていた。
ミナは目を細めた。数字を追う。合ってる。次の列。合ってる。次の列。
数字が動いた気がした。
そんなはずない。印刷された数字は動かない。分かってる。でも揺れて見えた。
机の端を掴んだ。
視界が傾いた。上と下の区別がつかなくなるような、引っ張られるような感覚。
ゆっくりと、膝から床に崩れ落ちた。
冷たかった。床が冷たかった。その感触だけが、はっきりしていた。
「大丈夫ですか」という声が聞こえた。近くにいた同僚の岡本さんだった。
「大丈夫です」とミナは言った。
岡本さんが肩を支えてくれた。温かかった。人の手の温かさを感じたのが久しぶりだと気づいた。いつぶりだろう。思い出せなかった。
「休憩室に行きましょう」
「仕事が」
「終わってから続きはできます。今は休んで」
断ろうとしたけど、言葉が出なかった。体が言うことを聞かなかった。岡本さんに支えられて、休憩室へ向かった。
休憩室のソファに横になった。
天井を見た。蛍光灯が白く、目に刺さる。ミナは目を細めた。
岡本さんが水を持ってきてくれた。
「ありがとうございます」
「熱はないみたいだけど、顔色が悪い。今日は早退した方がいいと思う」
「山田さんに言わないと」
「私が言います。気にしないで」
岡本さんは山田のところへ行った。少し話し声が聞こえた。山田の声。「そんなことで」という言葉が聞こえた気がした。気がしただけかもしれない。
岡本さんが戻ってきた。
「今日はもう上がっていいって」
「……ありがとうございます」
「無理はしないように」
また、無理という言葉だ。
今日で二回目だった。
その夜、ミナはベッドに横になった。
部屋の電気を消していた。暗闇の中で、天井の染みの形が見えた気がした。見えるはずがないのに、形を知ってるから見えた。
体が重かった。でも眠れなかった。
天井を見ながら、考えた。
明日も仕事に行かないといけない。明後日も。来週も。再来週も。それが続く。いつまで続くのか分からない。続く限り続く。終わる理由がない。
辞める選択肢は、あるのか。
山田の言葉が浮かんだ。「あなたを雇ってくれる会社はない」。
本当かもしれない。身元不明の人間を雇う会社は多くない。面接で落とされることは、ミナは経験として知ってた。
だから辞められない。
その論理は、何度も繰り返してきた。
でも今夜は、少しだけ違う場所で引っかかった。
今日、体が倒れかけた。明日も同じことをすれば、また同じことが起きるかもしれない。続けていたら、いつか本当に倒れる。
倒れることと、辞めることと、どちらが怖いか。
しばらく考えた。
答えは出なかった。
でも、体は答えを知ってた。
体が、もう嫌だと言っていた。
ミナはそれを、初めてはっきりと受け取った。
翌朝、ミナは出勤した。
体の重さは変わっていなかった。それでも出た。辞めると決めたなら、きちんと言わないといけない。
山田は朝から機嫌が悪かった。前日の仕分けにミスがあったらしく、誰かに怒鳴っていた。その後ミナのところへ来て、「昨日は大事なときに抜けて」と言った。ミナは何も言わなかった。山田もそれ以上は言わなかった。
昼休みに、山田を探した。事務所に一人でいた。コンビニの弁当を食べていた。
「少し、話してもいいですか」
山田が顔を上げた。弁当のまま「なんですか」と言った。
「退職したいと思っています」
山田の表情が変わった。驚いたというより、面倒くさそうな顔になった。
「急に言われても困りますよ」
「すみません」
「今、繁忙期ですよ。なんでこのタイミングで」
「体調が……」
「昨日のことですか。あんなことで辞めるんですか」
ミナは黙っていた。
「あなたみたいな事情の人間が、他でやっていけると思ってるんですか」
ミナは黙っていた。
「ここだから雇ってもらえてるんですよ。分かってますか。他の会社に行っても、あなたの話を聞いてくれるところなんてないですよ」
ミナはその言葉を聞きながら、いつものように「そうかもしれない」と思おうとした。
でも今日は、少し違った。
そうかもしれない。でも、だから何だ、という気持ちが、小さく、確かにあった。
ここにいなければならない理由として「他に行けないから」は、理由になるのか。
行けないから、ここにいる。
行けないから、山田の言葉を黙って聞く。
行けないから、体が倒れても続ける。
それが、ずっと続く。
ミナはしばらく黙っていた。山田はまだ何か言っていた。ミナは聞いていなかった。
それから、言った。
「ここには、もういません」
山田が黙った。
「辞めます」
声は落ち着いていた。自分でも驚くくらい。怒りもなく、悲しみもなく、ただ事実として言葉が出た。
山田がまた言い始めた。声が大きくなった。「非常識だ」「迷惑だ」「そういう人間だから」。ミナは立ったまま聞いた。言葉は耳に入ったけど、中まで入ってこなかった。
怒鳴り終わるのを待った。
終わったところで、「失礼します」と言って事務所を出た。
ロッカーに戻って、荷物をまとめた。
作業着のポケットから私物を出す。ハンカチ、リップクリーム、保湿クリーム。それだけだった。作業着は返却するものだからロッカーに残す。
田村さんが近くにいた。ミナが荷物をまとめているのを見て、何かを察したような顔をした。
「辞めるの?」
「はい」
田村さんはしばらく黙った。それから小さく頷いた。
「そう」
「お世話になりました」
「こちらこそ。ミナちゃんがいてくれて、助かったわ」
ミナはその言葉を受け取った。
助かった、と言ってもらえた。自分の仕事が誰かの役に立ってたということだ。
それは、悪くない感触だった。
「お体に気をつけて」と田村さんが言った。
「ありがとうございます。田村さんも」
それだけだった。長い言葉はなかった。それで十分だった。
建物を出たのは、正午すぎだった。
外は晴れていた。
一月の晴れた日は、光が鋭い。空が青い。雲がない。太陽が低い位置にある。影が長く伸びている。
ミナは立ち止まって、空を見た。
広かった。
それだけだ。特別な感情はなかった。何かが解放されたとか、清々しいとか、そういうのはなかった。ただ、空が広いと思った。
昼間に外にいるって、久しぶりだ。いつも倉庫の中にいるか、暗い時間に通勤してるかで、こんな時間に手ぶらで外に立ってるのが、なんか変な感じがした。
歩き始めた。
商店街を通った。ランチの時間で、お店の前に人が並んでた。ミナはその横を通り過ぎた。ラーメンか何かの匂いがした。お腹が空いてることに気づいた。昨日の昼も今日の昼も、あまり食べてなかった。
一人で飲食店に入ることは、あまりしない。一人でいると、なんとなく目立つ気がして。実際は誰も気にしてないんだろうけど。
それでも今日は、入った。
カウンター席のある定食屋だった。混んでたけど、一席だけ空いてた。
「一名ですか」
「はい」
席に案内された。メニューを見た。から揚げ定食に目が止まった。特に理由はない。目についたから頼んだ。
しばらくして料理が来た。から揚げは熱かった。口の中で肉汁が出た。ご飯が柔らかかった。味噌汁に豆腐が入ってた。全部食べた。久しぶりに全部食べた気がした。
食べ終わって、ミナは少し考えた。
初めて、自分の意思で選んだ、と思った。
辞めることを。定食屋に入ることを。から揚げを選ぶことを。
どれも小さなことだ。でも今日は、その小さなことが全部、自分で選んだことだった。
こんなに小さなことが、初めてだった。
帰り道、管理会社に電話した。
賃貸の解約について。「一か月前に申し出ていただければ」と担当者が言った。「分かりました」と言って電話を切った。
一か月。一か月後にこの部屋を出ることになる。
次にどこへ行くのか、決まってない。
でも不思議と、焦りはなかった。
決まってないことは、いつものことだ。自分がどこから来たかも、どこへ行けばいいかも、ずっと決まってなかった。それでも今日まで生きてきた。
一か月後のことは、一か月後に考えればいい。
アパートに帰って、布団に座った。
部屋を見回した。六畳一間。染みのある天井。狭い台所。小さな窓。
三年間、ここにいた。
大きな思い出はなかった。毎日、起きて、仕事に行って、帰って、寝た。それだけだった。
でも三年間は、確かにここにあった。
それはミナのメモ帳に、一行ずつ、記録されている。
翌日から、引き払いの準備を始めた。
荷物は少なかった。家具は備え付けのものだけで、私物といえば衣類、本、台所用品、それからメモ帳。
本は図書館で借りたものが多くて、手元にあるのは数冊だけだった。買った本は読み終えたら古本屋に売るか、図書館の返却ボックスに入れてた。物を増やすことを、ミナは意識的にしなかった。
なんでかは分からない。身軽でいたかったのかもしれない。何かを持つことで失う怖さを避けてたのかもしれない。
引き出しを開けた。
メモ帳が二冊入っていた。一冊目と二冊目。表紙に日付が書いてある。一冊目は施設を出た日から始まっている。二冊目は昨日の日付まで。
一冊目を開いた。
最初のページ。日付と一行。「新しい部屋に来た。畳が八枚ある」。
次のページ。「今日は倉庫で働いた。段ボールを三百個開けた」。
次のページ。「田村さんという人に話しかけられた。お茶をもらった」。
事実だけが並んでいる。感想はない。ただ、何があったか。
記憶がない人間には、記録しか残らない。
そう気づいたのは、施設の担当者にメモ帳を渡されたときだった。「何でも書いていいから」と言われて、最初は何を書けばいいか分からなかった。それで、その日起きたことだけを書くようにした。
記録すると、昨日のことが残る。先週のことが残る。先月のことが残る。読み返すと、自分がそこにいたことが分かる。
記憶がない人間にとって、それは意外と重要なことだった。
どこから来たかは分からない。でも昨日何をしたかは、書いてある。
それだけで、自分の輪郭が少し見えた気がした。
一冊目を机の上に置いた。
部屋を改めて見回した。
荷物をまとめたら、リュックひとつに収まるだろうと思った。それ以上のものは、ここにはなかった。
どこへ行くか、まだ決めていない。
でも東京にいる理由がなくなった。仕事はなくなった。友人もいない。帰る家もない。ここである必要が、もうない。
ならば、出ていけばいい。どこへでも。
ミナはその考えを、しばらく頭の中で転がした。怖いかどうか、確かめるみたいに。
怖くなかった。
怖くないのが、少し不思議だった。普通は怖いのかもしれない。仕事も行き先も知り合いもいない場所へ出ていくことは。
でもミナには、普通が分からない。何と比べて怖いのか、比べるものがない。
だから怖くない、というより、怖さの基準がない。
それがかえって、気楽だった。




