ブラック企業編1
午前五時。
目覚ましが鳴るより先に、ミナは目を覚ます。
なんでだろう、といつも思う。別に早起きしたいわけじゃない。でも体が勝手に起きる。いつからそうなのかは、分からない。分からないことは、ミナの人生にたくさんある。
天井を見上げる。染みが一つ。入居したときからあった染みで、大家さんは「雨漏りの跡だけど、もう直したから」と言っていた。ミナはそれ以来、雨の強い夜は必ず天井を確認する癖がついてしまった。今日は晴れている。染みは乾いたまま、今日もそこにある。
よかった、とは思わない。ただ確認するだけだ。
起き上がって、布団を畳む。壁際に寄せて、洗面台へ向かう。
鏡の中に、顔がある。
ミナはいつも、ここで少し時間がかかる。一秒か、二秒か。「ああ、これが私か」って確認しないといけない。見慣れているはずなのに。毎朝、初めて会う人みたいな気持ちになる。
記憶がないって、そういうことだ。
顔に記憶がない。この顔がどんな表情をしてきたか、どんな場所にいたか、何を見てきたか。何も知らない。だから毎朝、少しだけ他人の顔みたいに見えてしまう。
水で顔を洗う。冷たい。タオルで拭く。鏡の顔は変わらない。
今日も同じ顔だ、とミナは思う。それで十分だ、とも思う。
会社まで歩いて二十分。
バスを使えば十分で着くけど、ミナは歩く。バスの中は人と隣り合わなきゃいけない。混んでる時間は肩が触れる。それが、なんとなく苦手だ。
理由はよく分からない。ただ、知らない人が近くにいると、体が少し固くなる。
だから歩く。それだけのことだ。
十一月の朝はまだ暗い。街灯がオレンジ色に道を照らしている。コンビニの明かりだけが白くて、道に切り取られたみたいに落ちている。誰もいない横断歩道を渡る。信号が青になるのを待つ。
こういう時間が、ミナは嫌いじゃない。
誰もいない道を歩く朝は、自分が世界に一人だけいるみたいで、それが怖いんじゃなくて、なんか静かで、ちょうどいい感じがする。
歩きながら、今日の仕事を頭の中で整理する。
午前は入荷分の仕分け。午後は伝票の照合。夕方から残業。
残業代は出ない。出ないことは、最初から分かってた。
この会社に来たのは三年前だ。
行政の支援施設を出た後、ミナはいくつかのアルバイトを転々とした。飲食店、清掃、工場。どこも長続きしなかった。
原因は毎回少しずつ違った。体がついていかないこともあった。人とのやり取りがうまくいかないこともあった。身分証の問題で断られることもあった。
ミナの身分証は、行政が発行した特別なものだ。普通の免許証や保険証とは見た目が違う。提示するたびに、相手の顔が微妙に変わる。「えっと……」ってなる。そのたびに説明が必要になる。説明すると、相手がどう扱えばいいか分からない顔をする。
それが何度も続いた。
今の会社の担当者は「まあ、働けるなら」とだけ言った。細かいことは聞いてこなかった。
それがミナには、都合がよかった。
倉庫の中は広くて、薄暗くて、冬は冷える。
棚が何列も並んでいる。フォークリフトの音、ベルトコンベアの音、段ボールを開ける音。それが全部混ざって、ある種の騒音になっている。でも人の声はそんなに多くない。みんな黙々と作業している。
ミナにとって、ここは悪くない環境だった。
人と話す場面が少ない。「はい」「分かりました」「終わりました」だけで、大抵の仕事が片付く。自分のことを説明する必要もない。
ただ働く。それだけでいい。
同僚は十数人いる。名前はほぼ全員覚えている。顔を一度見れば、名前とセットで頭に入る。なんでそんなことができるのか、ミナ自身も分からない。でもできる。ずっとそうだった。
ただ、名前を知っていても、その先のことはあまり知らない。
鈴木さんは子供が二人いる。休憩室でよく写真を見てるから分かる。中田さんは腰が悪い。重い荷物を持つとき、顔がちょっと歪む。斉藤さんは煙草を吸う。休憩のたびに外へ出るから分かる。
でもそれ以上のことは知らない。聞いたことがないから。
ミナが自分のことを話さないのと同じように、みんなミナのことを深く聞いてこない。それは多分、ミナが「聞いてほしくなさそうな空気」を出しているからだと思う。無意識なのか、意識的なのか、自分でも分からないけど。
でもまあ、誰も踏み込んでこない。それでいい。
一度だけ、例外があった。
入社して半年くらい経った頃、田村さんという人と二人きりで休憩室にいたことがあった。パートで長く働いていて、倉庫の細かいルールを何でも知ってる人だ。
田村さんがお茶を勧めてくれた。断る理由もなく受け取った。二人でしばらく黙ってお茶を飲んでいたら、田村さんが言った。
「ミナちゃんって、実家どこなの」
ミナは少し間を置いてから答えた。
「分からないんです」
「え?」
「記憶がなくて。どこから来たのか、自分でも分からないんです」
田村さんはしばらく黙った。ミナは余計なことを言ったかな、と思った。でも田村さんは怖がった顔でも、困った顔でもなかった。どこか遠くを見るみたいな顔をして、それから言った。
「家族は?」
「いません」
「あら、大変ね」
大変。
その言葉が、ミナにはどこかずれた感じがした。
大変かどうか、分からない。比べるものがあって初めて言えることだと思う。家族がいる状態を知らないのに、いない状態が大変かどうか、判断できない。
でもそれを説明するのは難しかったから、「そうですね」と答えた。
田村さんはそれ以上聞いてこなかった。それからも、会えばお茶を勧めてくれた。それだけだった。それで十分だった。
会社がブラックだということは、入ってすぐに分かった。
残業代が出ない。休日出勤を断るとシフトを削られる。有給を申請すると理由を聞かれる。「その程度なら来られるだろう」と言われる。荷物の紛失があると、担当者が始末書を書かされる。自分のせいじゃなくても。
上司の山田は五十代で、声が大きくて、気分で態度が変わる。機嫌がいい日は冗談を言い、悪い日は怒鳴る。怒鳴るとき、必ず「だから君たちは」という言い方をする。
「だから君たちはダメなんだ」
「だから君たちには任せられない」
ミナはその「君たち」が、いつも少し気になった。自分は誰かと一緒にされている。でも誰と?
山田がミナに向かって言ったのは、入社から一年後のことだった。
別に転職活動をしていたわけじゃない。ただ、少し早く帰りたいとお願いしたとき、山田は関係のないことを言い出した。
「あなたみたいな事情の人間を、どこが雇ってくれると思ってるんですか」
ミナは黙っていた。
「ここだから働けてるんですよ。感謝してほしいくらいです」
それは本当かもしれない、とミナは思った。
自分の事情を話しても雇ってくれる会社は、確かに多くないだろう。だからここにいるしかないのかもしれない。
その論理は、何度も頭の中で繰り返された。繰り返されるたびに、少しずつ根を張っていった。
仕事が終わると、アパートに帰る。
夕飯を作る。切って炒めるだけのシンプルなものだ。食べて、片付けて、風呂に入って、寝る。
休日は図書館か、近くの河川敷を歩く。
図書館は好きだ。静かで、本があって、何時間いても追い出されない。ジャンルは問わない。小説、歴史、科学、旅行記。読んでいる間は、自分のことを考えなくていい。本の世界に意識が行く。それがいい。
河川敷は、ただ歩くだけだ。ベンチがあって、草があって、川がある。犬を連れた人とすれ違う。ジョギングしてる人もいる。ミナはただ歩く。外の空気は、部屋とは違う種類の広さがある。
友人は、いない。
作ろうとしたことはある。施設にいた頃、担当の人に「外の人と関わることも大切です」と言われて、地域の交流会に出たことがあった。二十代から三十代くらいの人が集まるサークルみたいなもので、最初は話せた。天気のこと、最近読んだ本、近所に新しく開いたカフェのこと。
でも少し仲良くなると、「出身はどこ」という話になる。「実家は」「学校は」「前の仕事は」。そういう話になる。
ミナは正直に話した。記憶がないこと、どこから来たか分からないこと。
相手は驚いた。驚いた後、どう反応すればいいか分からなくなった。「大変だったね」「でも今は元気そうで」という言葉が来て、その話は終わった。
終わった後が続かなかった。
何を話せばいいか分からなくなる。自分には過去がない。過去のない人間は、自己紹介ができない。「私はこういう人間です」を説明するとき、普通は過去を使う。どこで生まれて、どう育って、何が好きで、何が嫌いで。それがあって初めて「私」が説明できる。
ミナにはそれがない。あるのは、今だけだ。
今日食べたもの、今日歩いた道、今日感じたこと。それだけ。でも「今日」だけじゃ、人と繋がるには足りない気がした。
そうして自然に、友人を作ることをしなくなった。
ミナは時々、自分に問いかける。
もし記憶があったら、って。
帰る家があったら。家族がいたら。友人がいたら。名前があったら。
こんな会社にいなくて済んだんじゃないかって。
でもすぐに思い直す。
仮定には意味がない。
それが、ミナの長年の結論だ。記憶がない状態で社会に出て、うまくいかないことが続いて、「もし〜だったら」という考えに何度もはまって、そのたびに何も変わらないことを知って。
仮定は現実を変えない。
今あるものだけで考えるしかない。
十分かどうかは分からない。でも、そう思うことにしている。
ある秋の昼休み、休憩室で田村さんと話した。
その日、田村さんは孫の運動会の写真を見せてくれた。七歳の女の子で、かけっこで一位になったらしい。ミナはその写真を見ながら、子供って走るとき全力なんだな、と思った。手も足も使い切って、顔を真っ赤にして、転びそうになりながら。大人になるとああいう走り方はできなくなる。何かが少しずつ削れていく。
「ミナちゃんって、笑顔少ないよね」と田村さんが言った。
「そうですね」
「悪いことじゃないんだけど。なんか、もったいないなって」
「もったいない?」
「笑ったほうが楽しいでしょ、きっと」
ミナはしばらく考えた。楽しいかどうか、分からない。笑顔でいると楽しくなるのか、楽しいから笑顔になるのか。順序がよく分からなかった。
「試してみます」
田村さんは「そう言ってくれると嬉しいわ」と笑った。
帰り道、誰もいない道で、口角を少し上げてみた。感情が伴わない、表情の練習みたいなやつ。
でも、悪い気はしなかった。
十一月が終わり、十二月になった。
年末は荷物が激増する。残業が増える。休日出勤が増える。ミナはそれをこなした。黙々と。
ある日、山田が声をかけてきた。
「ミナさん、来週の日曜も来られますよね」
それは質問じゃなかった。
「来られます」とミナは答えた。
それしか言えなかった。
山田はそれだけ確認すると、次の人に声をかけた。
ミナは少し後で気づいた。「来たいかどうか」を聞かれていないのに、「来られます」と答えてしまったことに。
来たいかどうか、自分でも分からない。ただ、来ると言った。
それで十分なのかもしれない。
十分かどうか、分からないけど。
年が明けた。
正月も仕事だった。元日だけ休みで、二日から動いた。帰る場所がないミナには、正月に特別な意味がなかった。
一月の中旬、ミナはその日も仕事をしていた。
伝票の照合。数字の列が続く。一枚ずつ確認する。何百枚も。目が疲れる。
窓の外は曇っていた。倉庫に窓は少なく、外の光はあまり入ってこない。
数字が続いた。目が少し滲んだ。
そのとき、視界が揺れた。
ゆっくりと、でも確かに、世界が傾いた。ミナは机の端を掴んだ。冷たい金属の感触。息を吸う。揺れは続いた。
ゆっくりと床に膝をついた。誰かが声をかけてきた。「大丈夫ですか」。
「大丈夫です」とミナは言った。
大丈夫じゃなかった。でも「大丈夫じゃない」という言葉が、どうしても口から出てこなかった。
しばらく動けなかった。
床の冷たさが、膝から伝わってきた。その感触だけが、はっきりしていた。
ミナは思う。
自分に帰る家があれば。
家族がいれば。
友人がいれば。
名前があれば。
こんな場所にいなくて済んだんじゃないかって。
でもすぐに思い直す。
仮定には意味がない。
今、自分にあるのは、この冷たい床だけだ。
それだけが、今の、確かなことだった。




