38 初めての喧嘩に興奮です
緊張の面持ちでギルツハークがやってきた。
扉が開く音とともに、少し硬い足音が響く。
喧嘩をするのが目的だったから、いつものカフェではなく、我が家に招待した。
部屋の中が妙に静かに感じる。
「やあ…あ、あ…これ」
そう言って、ギルツハークが花束を出した。
少しぎこちなく腕が伸ばされる。
白い薔薇の花束。
苦笑いしてしまった。
「また、白い薔薇の花束なんですね」
視線を花束からギルツハークへ移す。
毎年、誕生日に贈られる白い薔薇の花束。
整えられた茎と変わらない包装紙を見るたびに、決まりごとのようなものを感じていた。
これをもらうたびに、プレゼントを選ぶのが面倒だったんだろうなと落ち込んできた。
アルベルトの言葉を思い出す。
『自分の気持ちを素直に伝えたら、喧嘩できると思うよ』
自分の気持ちを、素直に。
「白い薔薇。ギルツハーク様はプレゼントといえば白い薔薇なんですね」
私がそう言うと、ギルツハークが驚いたような顔をした。
手元の花束と私を交互に見て、戸惑いが滲む。
「…白い薔薇が好きだって、言ったから」
「ええ。最初に贈っていただいたときですよね。社交辞令です」
そう伝えると、ギルツハークが小さい声で「え?」と言った。
裏返りそうなほど小さな声が、空気に溶けていく。
「まさか、あれから毎年毎年、白い薔薇の花束を贈られることになると思わなかったんです」
「それなら、そう言ってくれれば…よかったのに」
ギルツハークがそう言った。
少し声が強くなりかけて、途中で飲み込むように止まる。
ギルツハークの言う通りだったかもしれない。
私は伝えるべきだった。
「そうですね。私が言わないから毎年、白い薔薇でいいだろうと思われたんですよね」
「いいだろうなんて…」
ギルツハークが私の言葉に戸惑っている。
今日は、喧嘩をしようと思っているのだから作戦通りだ。
「デートに誘ってくださらなかったのも、学園であっても顔すら見てくださらなかったのも、全部、私がそうしてほしいと言わなかったからですか?」
言葉を吐き出すたびに、胸の奥が少しずつ熱を持つ。
積もり積もっていた不満が、静かに、けれど確実に溢れ出していく。
声は震えていないはずなのに、自分でも驚くほど感情がこもっていた。
ギルツハークは私の言葉に少したじろいだような気がした。
まるで予想外の攻撃を受けたかのように、一瞬だけ目を見開いている。
柔らかな光が差し込む部屋の中で、空気が少しだけ張りつめていた。
テーブルの上の白い薔薇の花束は、さっきから微かに香りを漂わせている。
その優雅な香りとは裏腹に、部屋の中心では見えない火花が散っていた。
「デートは、してたじゃないか」
そう言われて、首を傾げる。
あまりにも予想外な返答に、思わず問い返したくなる。
いつデートなんてしたんだろうと、ギルツハークを見つめ返す。
ギルツハークは少しだけ言いづらそうに視線を逸らした。
「家で、一緒にお茶を飲んだり…」
「1時間も一緒にいないのが、ギルツハーク様のデートなんですか?」
思わず語気が強くなる。
それをデートと呼ぶには、あまりにも味気なさすぎる。
あれをデートだと思っていたなんて。
「一緒にいたって、何も話さなかったから。早く帰ったほうがいいのかなと思ったんだよ」
「ギルツハーク様が何も話さないから、いたたまれなかったんです」
「何を話せばいいのかわからなかったんだ」
「では、天気のお話でも、お菓子のお話でも、何でもよかったじゃないですか」
「そんなことでよかったのか?」
「そんなことすら、してくださらなかったじゃないですか!」
互いの言葉が少しずつぶつかり合い、お互いの語尾が荒くなっていくのがわかった。
ギルツハークは一瞬言葉を失い、困ったように眉を寄せた。
私は胸の奥がじわりと熱くなるのを感じながら、それでも視線を逸らせなかった。
「学園でも、まるで他人のようでした」
「それは、その…周囲の目もあるし」
「婚約者だったのに?」
「だからこそ、どう接すれば正しいのか…」
「正しいとか間違いとかじゃなくて、私はただ、少しくらい気にかけてほしかっただけです」
その言葉に、ギルツハークは息を呑む。
ようやく少しだけ、私の寂しさが伝わったような気がした。
「君が嫌がっているのかと思っていた」
「どうしてそうなるんですか」
「いや、その…あまり楽しそうに見えなかったから」
「楽しくなる努力を、私だけに任せていたでしょう?」
痛いところを突かれたのか、ギルツハークは完全に押し黙る。
その沈黙が、逆に答えのようでもあった。
「私は、ギルツハーク様が少しでも歩み寄ってくだされば、それだけでよかったんです」
ぴしゃりと言い切ると、ギルツハークはわずかに肩を落とした。
ああ言えばこう言う。
けれど、こうして言葉をぶつけ合うことすら、以前の私たちには足りなかったのかもしれない。
ようやく本音を交わせている気がして、ほんの少しだけ息がしやすくなった。
2人でこんなに本音を話したのは初めてかもしれない。
今まで積み重なっていた誤解が、少しずつ形を持って表に出てきているようだった。
あのときはこうだった。
そのときはこうだった。
そんなことを2人で言い合った。
ギルツハークの声は時折かすかに震え、私の言葉もどこか勢いに押されるように尖っていく。
長く飲み込んできたものが、今になって溢れているようだった。




