34 刺繍が好きなのか悩みます
そういうわけで、なぜかギルツハークと刺繍展に来てしまった。
会場の明るさに目を細めながら、少し緊張したまま歩く。
「まあ、この刺繍…すごく素敵ですわね」
ガラス越しに作品を見つめていると、光が糸の一本一本に反射しているようだった。
私がじっと見ていると、ギルツハークがおずおずと作品に近づいてくる。
刺繍がお好きなわりに、あまり興味はなさそうな気がする。
私がいいと言わないと、ギルツハークは作品を見ようとしないんだもの。
「ギルツハーク様はどんな作品がお好きなんですか?」
もしかしたら、私とは趣味が合わないのかもしれない。
「え?…好きな、作品?…えっと…あ、あれとか」
ギルツハークが少し視線を彷徨わせたあと、控えめに指を伸ばして展示の一角を指し示す。その動きは少しだけぎこちない。
「まあ!ほんと、素敵ですね」
繊細な糸で描かれた色彩が目に入る。
絵本を題材にした刺繍だろう。
光を受けて淡く輝く刺繍は、話の一場面がそのまま切り取られたようだった。
私も子どもの頃に読んだことがある作品のものだった。
「子どもの頃、この絵本を読んだことがあります」
懐かしさに少しだけ視線が柔らかくなる。
「ああ…よく君が読んでいた絵本だったよね」
ギルツハークが刺繍を見ながらそう言った。
作品ではなく、そのさらに向こうを見ているような目だった。
「覚えていらっしゃったんですか?」
思わず問い返す。
私のことなど興味がないと思っていたけど、覚えていてくれたんだ。
「絵本…あまり読んでもらった記憶がなくて。君が読んでいたのがどんな話なのか気になって、我儘をいって読んでもらったんだ…5歳のときに」
ギルツハークが少しだけ目を逸らし、耳の先を赤くしながらそう言った。
指先で展示ケースの縁を軽くなぞっている。
そうだったんだ。
「私はこの…銀色の狐が好きで…」
胸の奥にふっと浮かぶ一場面を思い出しながら言う。
銀色の狐。
そうだ。
ギルツハークを見たとき、絵本に出てくる銀色の狐みたいだなって思ったんだ。
初めて会ったあの日の光景が、ふいに重なる。
銀色の髪、銀色の瞳。
絵本に出てくる銀色の狐は、とてもいい狐だけど、最後はお星さまになってしまう。
だから、ギルツハークは私が守ってあげたいなって、そう思ったんだ。
「…ディア?どうしたの?」
少し心配そうな声に現実へ引き戻される。
ギルツハークがこちらを覗き込むように近づいてきた。
「ギルツハーク様に最初に会ったときのことを思い出していました」
そう言って、目を細めた。
ギルツハークは最初に会ったとき、私を見ようともしなかった。
椅子に座って、ふてくされたみたいにそっぽを向いていた姿を思い出す。
あのときは結局、ギルツハークとはひと言もしゃべらずに別れたんだよね。
だから、婚約の話なんてなくなるだろうと思ったのに、トントンと話が進んでしまったのだ。
「思えば、最初から嫌われていましたものね、私」
自嘲するように口元だけで笑う。
「え?」
ギルツハークが驚いたように私を見た。
「今だから言ってしまいますけど、顔も見たくないなら、会いにこなければいいのにって思っていたんですよ」
少しだけ肩をすくめながら、軽く笑う。
笑っていないと泣きそうだから。
ギルツハークが困ったように「え?え?」と慌てていた。
視線があちこちに泳いで、言葉が追いついていない。
これくらいの復讐は許してほしい。
「でも、こうやって、普通にお話ができるようになったので、許して差し上げます」
そう伝えて、次の作品を見ることにした。
足を一歩動かし距離を取ろうとして、ギルツハークが私の手をとる。
「…ち、違うんだ、ディア。顔が…見られなくて…見たくなかったんじゃないんだ」
指先が触れた瞬間、びっくりするくらい体が固まった。
心臓が口から出そう。
…何、これ?
ギルツハークが何か言ってるけど、何も聞こえない。
視界が狭くなっていくようで、自分の心臓の音だけがやけに大きく響いている。
「…だから、俺は」
ギルツハークの声が耳に届いて、視界が突然広がった。
「はっ!」
ギルツハークの手を振り払う。
反射的に一歩下がった。
「ギ、ギルツハーク様ったら、そんなにこの作品がお好きなんですね。私はあちらの作品を見てまいります」
そう言ってその場を離れる。
靴音がやけに大きく響くのを感じながら、早足になる。
いけない、いけない。
うっかりしていたけれど、ギルツハークの想い人は刺繍好き。
お友達も刺繍好きかもしれないじゃない。
だとしたら、ギルツハークの想い人の友達が、この刺繍展に来ている可能性もある。
私と手を取り合っているところをうっかり見られでもしたら誤解されてしまうわ。
ただの幼馴染同士でお出かけをしているだけなのに…




