10 ギルツハークの想い人はわかりません
ギルツハークと婚約を解消すると決めてから、カフェにひとりで来られるようになった。
本屋や雑貨屋にだって行けるようになった。
歩く足取りにも、少しだけ自信が混じるようになった気がする。
どれも学園の近くのお店ばかりだけれど。
これまで花嫁修業だなんだと、ギルツハークのことばかりを考えていたけれど。
私にはこんなに時間があったんだと知った。
カフェで待っていると、ギルツハークが来た。
扉が開く音とともに、視線が自然とそちらへ向かう。
「ひとりで大丈夫だった?もう、注文はできた?寒くないか?」
ギルツハークが一気に尋ねる。
立ったまま、少し身を乗り出すようにして私の様子を確認してくる。
相変わらず心配性だ。
以前の私なら、これを、ギルツハークが私のことを考えて心配してくれているんだと思い込んでいただろう。
いや、思い込もうとしていたのか。
そうして、ギルツハークがこれほど心配してくれるのだからと、さらに頑張ろうと。
ギルツハークの好みの女性になれるよう、励んでいたに違いない。
ただ、嫌われていただけだったのに。
「はい。もうカフェくらい、ひとりで来られます。大丈夫ですよ」
そう伝えると、ギルツハークがほんの一瞬だけ言葉を失い、少し寂しそうな顔をした…ように見えた。
ギルツハークが席につくと、さっそくいつ両親を説得にいくかを尋ねてみた。
「それなんだけど。俺は、君との婚約を解消するつもりはないんだ」
晴天の霹靂。
頭の中でその言葉だけが大きく響く。
「え…?だって…」
『婚約をやり直せればいいのに』
そう、言っていたじゃない。
いまさら、どうして。
胸の奥がざわつく。
「はっ!」
わかってしまった。
ギルツハークは私と結婚だけはして、想い人は愛人にするつもりなのだわ。
もしかしたら、想い人というのは身分が低い方なのかも。
だから、本妻として迎えるには体裁が悪い。
私ととりあえず結婚して、想い人と別邸で仲良く暮らすつもりなのね。
カップの中で揺れる液面をぼんやり見つめながら、頭の中で状況を整理しようとする。
それはつまり…別居婚。
「ディア、ディア?…また何か変なことを考えていないかい?君は…思い込むと突っ走るから…聞いてる?」
ギルツハークに声をかけられて、ようやく自分がカフェの席に座っていることを思い出した。
窓の外の光がテーブルに落ちて、彼の影が少し揺れている。
「あ、すみません。そういうことだったんですね。…少し、考える時間をください。別居婚は考えておりませんでした」
「いや、考えてないよ」
ギルツハークが何かを言ったような気がしたけど、それどころじゃない。
まさか、そんな理由で婚約を解消しないと言っていたとは思いもよらなかった。
ギルツハークの想いをくみ取れない自分が情けない。
すべての計画を考え直さなくては。
組み立てていたはずの未来が、音を立てて崩れていく感覚があった。
「あはははは…本当に、あはははは…面白いね、ディアは…」
アルベルトがお腹を抱えて笑っている。
椅子の背にもたれ、肩を揺らしながら涙まで浮かべているようだった。
何がそんなに面白いのかはわからないけれど。
結局、アルとディアという呼び方だけはそのまま。
恋人のフリもしているのかしていないのか。
アルベルトとの関係は、友達以上恋人未満という、中途半端なものになっている。
「まあ、いいや。それより、今日は1日、付き合ってよね」
アルベルトがそう言って、私の手をとった。
突然のことに、心臓が大きく跳ねた。
ギルツハークにも手を握られたことはない。
慌てて手を振り払ってしまった。
婚約者がいるにもかかわらず、男性にこうしてエスコートされることに慣れていない。
いいえ、慣れていないどころか、経験そのものがほとんどなかった。
往来の多い街路。
石畳の道を行き交う人々。
恋人同士らしき男女が自然に腕を組み、夫婦が穏やかに買い物を楽しみ、子どもたちが笑いながら駆けていく。
そんな当たり前の光景の中で、自分だけが妙にぎこちない。
「…あ、ごめん。嫌だった?」
アルベルトが申し訳なさそうに私を見る。
子犬みたいな瞳に、思わず罪の意識を感じてしまった。
「いえ、驚いてしまって…その、男性と手を繋いだことがなかったもので」
私がそう言うと、アルベルトが固まった。
いつもの冗談のようなフリーズではなく、本気で驚いている顔だった。
まばたきすら忘れたように、しばらく私を見つめている。
「確認だけど、ディアはギルツハークと婚約してるんだよね?」
改めてそう尋ねられると恥ずかしい。
「はい…一応」
一応とつけなければいけないのも寂しいけれど。
「それで、手も繋いだことないの?」
そう言われて、さらに恥ずかしくなった。
視線を逸らし、小さく頷く。
婚約者から嫌われている魅力のない女性だと、白状しているような気分だった。
「…はい。すみません。こんな私の恋人のフリなんてさせちゃって…」
そう伝えたら、涙が溢れそうになった。
アルベルトがそんな私を見て「これは、お仕置きが必要だな」と呟く。
空耳かなと思いながらアルベルトを見た。
彼はほんの少し眉を下げ、それからいつもの明るい笑顔を浮かべる。




