森の泉と、初めての『魔法』の感覚
微かな水音に導かれるように、ハヤトは鬱蒼とした森の奥へと足を進めた。
木々が開けた先にあったのは、エメラルドグリーンに澄み切った美しい泉だった。
「こんな場所に、泉が……」
顔を洗って頭痛を和らげようと近づいたハヤトは、泉の岩場に見覚えのある制服が丁寧に畳んで置かれているのに気づいた。
そして、泉の中央。
夕陽が差し込む水面から、透き通るような白い肌が露わになっていた。
長い金糸のような髪が水面に広がり、尖った耳がピクピクと動く。それは、昼間の実技授業で圧倒的な魔法を見せつけた風の天才、エルフのシルフィだった。
彼女は誰もいない安全な場所だと油断しているのか、弾むように鼻歌を歌いながら、豊かに実った胸の谷間や、引き締まった細い腰に優しく水をかけている。
(うわっ……!?)
ハヤトは全身の血が沸騰するような衝撃を受け、慌てて目を逸らそうとした。
しかし、足元のぬかるみに足を取られ、ハヤトは「あっ」と声を漏らしながら、斜面をズルズルと滑り落ちてしまった。
ザザーッ!
派手な音を立てて泉のほとりに尻餅をついたハヤト。
その音に驚き、シルフィが弾かれたように振り返った。
視線が、完璧に交差する。
「え……」
シルフィの大きな翠緑の瞳が見開かれ、自分の裸を見られているという事実を認識するまでに数秒の時間を要した。
やがて、彼女の顔が耳の先まで真っ赤に染まり上がっていく。
「あ、いや、違うんだ! これは偶然で……!」
ハヤトが両手を振って必死に弁解しようとした瞬間。
「キャアアアアアアアッ!? こ、この……ッ、変態、ド変態! 最低の落ちこぼれぇぇぇッ!!」
シルフィの悲鳴とともに、彼女の周囲の水が爆発的に巻き上がり、暴風が吹き荒れた。
詠唱などない。羞恥と怒りに染まったシルフィの「こいつを吹き飛ばせ」という強烈な『願い』が、即座に世界を書き換えたのだ。
「死になさいッ!! 《不可視の断頭刃》ッ!!」
彼女の指先から、大木すら容易く両断する真空の刃が放たれた。それはハヤトを殺す気こそなかったものの、手足を一本削ぎ落としかねないほどの凄まじい殺気を帯びていた。
(躱せない! 防ぐには、刃の風圧と軌道を計算して、逆位相の衝撃波を……!)
ハヤトの脳が、無意識に物理の計算式を弾き出そうとした。
『――ジリリリリリッ!』
「がああぁッ!?」
ステラの呪いが発動し、ハヤトの脳を焼き切るような激痛が走る。
計算が途切れ、足がもつれ、ハヤトは無防備なまま地面に倒れ込んだ。
迫り来る真空の刃。このままでは本当に切り刻まれる。
(考えるな……! 電子も、気圧も、ベクトルも、すべて忘れろ!!)
ハヤトは、激痛の中で必死に「理屈」を頭から追い出した。
原因などどうでもいい。プロセスもいらない。
ただ、この目の前にある脅威を撃ち落とす、絶対的な『結果』だけを強烈にイメージしろ。
(落とせ……! 俺の盾となれ! 雷よ、落ちろォォォォッ!!)
ハヤトは目をカッと見開き、迫り来る真空の刃に向かって、ただ純粋な『願い』だけを込めて右手を突き出した。
その瞬間。
ハヤトの体内から、これまでとは全く違う、澄み切った魔力の波動が世界へと放たれた。
雲一つない空から、あり得ないはずの極太の青白い落雷が、一直線に泉のほとりへと突き刺さった。
ドガァァァァァァァァァァンッ!!!!
凄まじい轟音と閃光。
雷雲も摩擦も電圧も、物理法則のすべてを完全に無視し、ただ「そこへ落ちろ」という主の命令に従って突如として発生した雷撃は、シルフィの放った真空の刃を空中で正確に撃ち落とし、完全に相殺してみせたのだ。
「え……!?」
シルフィは水面を覆い隠していた両腕の隙間から、目の前で起きた信じられない現象に絶句した。
あの静電気しか出せなかったFランクの落ちこぼれが、無詠唱で、しかも空から直接雷を落として、学園最高峰である自分の魔法を完全に防いだのだ。
「はぁっ……はぁっ……」
ハヤトは突き出していた右手を力なく下ろし、そのまま意識を失ってパタリと地面に倒れ伏した。
「ちょっと……な、何よ、今の……」
シルフィは呆然と呟きながら、気絶したハヤトを見つめていた。
彼女の胸の中で暴れていた怒りと羞恥心は、いつの間にか、彼が放った「底知れない魔力への驚異」と、得体の知れない高鳴りへと変わっていた。
呪いによって計算を封じられた少年が、初めて物理の檻を破り、真の『魔法』に触れた瞬間だった。




