神速の盗賊と、摩擦ゼロの力学
城塞都市グラン・ロアの路地裏は、王都のそれとは比べ物にならないほど治安が悪く、空気が淀んでいた。
ハヤトたちは、今後の探索に向けて街の構造を把握するため、市場が広がる区画を歩いていた。ハヤトの背中には、彼自身の背丈ほどもある重厚な『キャパシタシールド』が、太い革のベルトで厳重に固定されている。
いくら超回復で筋肉を鍛え上げたとはいえ、これだけの質量を背負って歩けば足音が重くなる。しかし、そのズシリとした重みは、彼にとって仲間を守るための確かな「錨」でもあった。
「……ねえ、さっきから後ろをチョロチョロついてきているネズミども、どうするの?」
周囲を警戒しながら歩いていたリアナが、前を向いたままハヤトに小声で囁いた。
「気づいています。ギルドで絡んできた連中ですね。俺たちが余所者で、しかもBランクに上がったばかりだと舐めているんでしょう」
「無礼な奴らね。このアルバーン家の――じゃなくて、私に喧嘩を売ろうなんて、丸焦げになりたいのかしら」
セレスティアが苛立たしげに杖の柄を握りしめ、ミナは不安そうにハヤトの背中に身を寄せた。
路地が入り組んだ死角に差し掛かった瞬間、前方から三人の柄の悪い男たちが立ち塞がり、後方からも先ほど尾行していた四人が退路を塞いだ。
「よう、王都のお坊ちゃん、お嬢ちゃんたち。この街の『歩き方』を教えてやろうと思ってな」
ニヤニヤと笑いながら、男たちが下品な視線をセレスティアやミナに向ける。
「手っ取り早く言うと、みかじめ料だ。その背負ってる立派な盾と、姉ちゃんたちが持ってるマジックアイテムを置いていきな。大人しくすりゃ、命だけは助けて――」
男が脅し文句を言い切るより早く。
ハヤトは背中のキャパシタシールドを左腕へとスライドさせようと、筋肉に電気信号を送り込んだ。
だが――ハヤトが動くよりも、リアナが双刃を抜くよりも、さらに「数段早く」。
ヒュッ……!
路地の空気が、突如として真空に引っ張られたかのような異音を立てた。
「え……?」
男の一人が間抜けな声を漏らした次の瞬間。
パァンッ! という乾いた破裂音と共に、前方を塞いでいた三人の男たちの身体が、見えない巨大なハンマーで殴られたかのように一斉に吹き飛び、石壁に叩きつけられた。
「な、なんだ!?」
後方の四人が慌てて武器を抜こうとする。
しかし、彼らの視線の先には、いつの間にか一人の男が立っていた。
ギルドで見かけた、あの黒い軽装鎧のシーフ(盗賊)――神速のジンだ。
ジンは手にした二振りの短剣の「峰」で、男たちの首筋や関節の急所を、瞬きすら許さぬ速度で正確に打ち抜いていく。
一撃、二撃、三撃、四撃。
その間、わずか一秒未満。
「が、ぁ……」
後方の四人は、何が起きたのかすら理解できないまま白目を剥き、崩れ落ちた。
(……見えなかった……!?)
ハヤトは驚愕に見開いた目で、ジンの背中を見つめた。
ハヤトの動体視力は、静電気で視神経を極限まで活性化させているため、飛んでくる矢すらもスローモーションで捉えることができる。
しかし、今のジンの動きは、その限界すらも完全に置き去りにしていた。
『マスターよ。あれは単なる“速さ”ではない。極限まで最適化された“力学”じゃ』
視界の端で、白衣の教授が目まぐるしく数式を展開させる。
『速く動くためには、地面を蹴る莫大な“作用・反作用の力”と、空気抵抗を切り裂くエネルギーが必要になる。しかし、あの男の動きには、無駄な踏み込みの予備動作も、空気をかき乱す乱流の発生も一切ない。全身の筋肉と関節の動きが完全に同期し、摩擦というノイズをゼロに近づけることで、エネルギーの100%を推進力へと変換しておるのじゃ』
(摩擦ゼロの力学……! 一切のエネルギーロスがない、生きた完全なモーター……!)
ハヤトは息を呑んだ。
圧倒的な才能と、血を吐くような修練の果てに到達したであろう、物理法則の極致。これがAランクという存在なのか。
「す、すごい……。私、全然目で追えなかった……」
同じくスピードを武器とするリアナが、愕然として呟く。彼女のプライドが音を立てて崩れるほどの、次元の違う速度だった。
「……あの、助けていただいて、ありがとうございます……」
ミナが恐る恐るジンに向かってお礼を言う。
しかし、ジンは倒れた男たちを一瞥することもなく、もちろんハヤトたちの方を振り返ることもなかった。
彼は無言のまま、チャキッと短剣を鞘に収めると、まるでそこに石ころでも転がっていたかのような無関心さで、再び風のように路地の奥へと歩き去ってしまった。
「な、なによあの態度! 助けてもらったのは感謝するけど、一言くらい返事したっていいじゃない!」
セレスティアがプンプンと怒りながら文句を言う。
「……いえ。彼は俺たちを助けたわけじゃないんだと思います」
ハヤトは、ジンが消えた路地の奥を見つめながら静かに言った。
「彼からすれば、ただ『自分が通る道に邪魔な障害物があったから排除した』だけ。俺たちの存在すら、彼の目には入っていなかった」
ジンの圧倒的な速度。それは、敵の攻撃が届く前に、そして味方がピンチに陥る前に、すべてを自力で解決してしまう絶対的な力だ。
だが、その完璧すぎる自己完結の能力こそが、彼を孤独にしている原因でもあるとハヤトは直感した。
「彼は速すぎる。誰も彼のスピードについていけないし、彼自身も誰かのフォローを必要としていない。……だから、彼は誰ともパーティを組めない(回路を繋げない)んだ」
最強の部品でありながら、他のどの部品とも規格が合わない独立した歯車。
ハヤトは背中のキャパシタシールドの重みを感じながら、この街にいるという残り二人のAランク冒険者たちに思いを馳せていた。




