熱の不可逆性(エントロピー)と、継承される鋼
絶望の魔将ザガースの襲撃から数日後。
王都の空は、彼らの悲しみを代弁するかのように、朝から冷たい氷雨を降らせていた。
王都郊外にある冒険者たちの共同墓地。
真新しい墓標の前に、黒い外套を深く被ったハヤト、ミナ、リアナ、セレスティアの四人が静かに立ち尽くしていた。
墓標の足元には、真っ二つに割れ、高熱で黒焦げになった『鋼鉄の大盾』の残骸が供えられている。
それは、最強の物理タンクであり、ハヤトたちにとって頼れる兄貴分であり、そして何より――身を挺して彼らを絶死の一撃から守り抜いた、ガルドの遺品だった。
「……ガルドさん」
ハヤトの声は、雨音に掻き消されそうなほど弱々しく、掠れていた。
包帯で固定された左腕の痛みなど、胸の奥を抉るような喪失感に比べれば何でもない。
彼の脳裏には、血を吐きながらも一歩も引かず、笑顔で事切れたガルドの最期が、呪いのように何度もフラッシュバックしていた。
「俺が……俺のシステムが完璧だと慢心していなければ。左腕のダメージを無視して、一人でキマイラの攻撃を受け続けるような馬鹿な真似をしなければ……俺が盾を構えられていれば……!」
ハヤトは膝から崩れ落ち、泥だらけの地面に手をついた。
雨水が頬を伝い、涙と混ざって落ちていく。
『マスターよ……』
視界の端に現れた『教授』も、いつものような軽口は叩かず、悲痛な顔で目を伏せていた。
『熱力学第二法則……“エントロピー増大の法則”。覆水は盆に返らず、割れた卵は元に戻らん。一度失われた熱は、いかなる物理法則をもってしても、不可逆の彼方へ消え去るのじゃ』
(分かってる……! 俺の傲慢なエラー(計算違い)が、取り返しのつかない結果を招いたんだ……!)
ハヤトが泥を強く握りしめ、嗚咽を漏らしたその時。
「立ちなさい、ハヤト」
冷たい雨の中、凛とした声が響いた。
セレスティアだった。彼女は黒い傘も差さず、雨に濡れるのも構わずにハヤトの前に歩み寄った。
「セレスティア様……」
「……たしかに、あなたの傲慢さは最悪だったわ。一人で背負い込んで、私たちを置いてけぼりにして。その結果が、これよ」
セレスティアの瞳からも、雨に紛れて一筋の涙がこぼれていた。
しかし、彼女の目は決してハヤトを蔑んではいなかった。
「でもね、ハヤト。ガルドは言っていたじゃない。『味方が安心して戦えるように自分の命を張るのが盾の仕事だ』って。彼はその役割を完璧に果たしたわ。なら、ガルドの命(盾)に守られた私たちが、こんな所で立ち止まって下を向いていることの方が……よっぽど彼に対する侮辱よ」
セレスティアの言葉に、リアナも静かに歩み寄り、ハヤトの右肩に手を置いた。
「そうだよ、ハヤト。あんたのシステムは、私たちがいないと動かないんでしょ? だったら、泣いてる暇なんてない。……ガルドが守ってくれたこの回路を、絶対に途切れさせちゃ駄目なんだよ」
「リアナさん……」
ミナもハヤトの背中にそっと触れ、温かい治癒の魔力を流し込みながら、優しく微笑みかけた。
「ハヤト君。ガルドさんは、ハヤト君に『盾の何たるか』を教えてくれましたよね。……ハヤト君がこれからガルドさんの代わりにみんなを守ってくれるなら、ガルドさんはずっと、私たちと一緒にいるのと同じです」
三人の少女たちの言葉。
それは、ハヤトが一人で勝手に断線させてしまった回路を、彼女たちの方からもう一度繋ぎ直してくれた証だった。
「……ッ」
ハヤトは泥だらけの手を地面から離し、よろめきながらも立ち上がった。
そして、墓標の前に置かれた、無惨に砕けた『鋼鉄の大盾』の破片を、震える右手で拾い上げた。
その断面は、魔将ザガースの漆黒の魔力を受け止め、信じられないほどの高熱に晒されたことで、ドロドロに溶け、奇妙な波打つような模様を描いて固まっていた。
『……ふむ。これは……』
ハヤトの網膜上で、教授が目を細めてその断面の図解を分析し始めた。
『マスター。エントロピー(破壊)は元には戻らん。しかし、物質は極限の熱と圧力を加えられることで、内部の原子配列を変化させ、全く新しい性質を持つ“別の物質”へと生まれ変わることがある。“相転移”、あるいは“再結晶化”じゃ』
(再結晶化……)
ハヤトは、ガルドの盾の破片を強く握りしめた。
「親方のところへ行こう。……俺のシステムは、まだ完成していない」
◇
ドワーフの武具工房。
親方は、ハヤトが持ち込んだガルドの盾の残骸と、ひび割れた黒いキャパシタシールドを机の上に並べ、深く息を吐いた。
「……ガルドの奴が、死んだか。馬鹿野郎が、いい漢ぶりやがって」
親方はハンマーを置き、ガルドの盾の断面を指でなぞった。
「だが、ただで死んだわけじゃねえな。この鋼鉄……悪魔の魔力っていう異常な高熱と圧力を受けて、限界まで圧縮されたことで、ドワーフの業火でも打てねえほどの『超硬度の特殊合金』に生まれ変わってやがる」
「親方。お願いがあります」
ハヤトは、痛む左腕を庇いながら、真っ直ぐに親方を見据えた。
「俺のキャパシタシールドは、電気と魔力を吸収するコンデンサとしては完璧です。でも、純粋な『物理攻撃』や、容量を超える一撃を受けた時の『物理的な防御力(装甲)』としては、まだ脆い」
「……つまり?」
「ガルドさんの盾(鋼)を溶かして、俺のキャパシタシールドの『一番外側の装甲』としてコーティングし直してほしいんです」
ハヤトの提案に、親方は目を丸くし、そして少女たちも息を呑んだ。
「俺の左腕は、もう二度と慢心で壊したりしない。……これからは、俺がこのパーティの最前線に立ちます。だから、俺の回路の『一番前』には、ガルドさんの鋼(意志)が必要なんです」
魔力を吸収する古代の誘電体の表面を、悪魔の絶死の一撃すら耐え抜き、超硬度に再結晶化したガルドの鋼で覆い尽くす。
物理と魔法、そして仲間の遺志。すべてが完璧に噛み合った、真の最強の盾。
「……へっ。機械みたいな理屈ばっかりこねてた坊主が、ずいぶんと人間臭い要求を出すようになったじゃねえか」
親方が、ガハハと豪快に笑いながら、熱い涙を拭った。
「任せとけ。ドワーフの技術と意地にかけて、ガルドの魂と、お前さんの理屈を完璧に融合させた『最強の盾』を打ってやる。三日待ちな!」
ハヤトは深く頭を下げた。
もう、一人で戦うための盾ではない。
仲間を守り、仲間の力を借りて回路を繋ぐ。そのための真の『土台』を、ハヤトは心の中に築き上げていた。




