絶望の魔将と、砕け散る大盾
酒場の石壁を粉砕し、土煙の中から現れた漆黒の影。
背中に蝙蝠のような翼を持つその男は、王都の冒険者ギルドを冷酷な目で見下ろしていた。
「我は魔王軍幹部、魔将ザガース。この街の『結界』を維持する魔力炉を破壊しに来たが……ゴミ虫どもが宴を開いていたとはな。ちょうどいい、死の絶望という余興を楽しませてもらおう」
ザガースが一歩踏み出しただけで、酒場の床石が蜘蛛の巣のようにひび割れた。
Aランク――否、それすらも凌駕するかもしれない圧倒的なプレッシャー。
その場にいたBランクの冒険者たちは、剣を抜くことすらできず、蛇に睨まれた蛙のように膝から崩れ落ちていく。恐怖で呼吸すらままならないのだ。
「や、やらせないわッ!」
セレスティアが震える足で立ち上がり、杖を構えた。
彼女の全魔力を込めた、特大の爆炎がザガースに向かって放たれる。リアナも死角へと回り込み、必殺の速度で双刃を振り下ろした。
「《極炎――」
「遅い」
ザガースが指先を軽く振った。
ただそれだけで、セレスティアの爆炎は掻き消え、目に見えない衝撃波がリアナの身体を紙切れのように吹き飛ばした。
「きゃあぁぁッ!?」
「リアナさん、セレスティア様!」
ミナが悲鳴を上げ、壁に叩きつけられた二人へ駆け寄る。
魔法の天才と敏捷の要が、手も足も出ない。これが、魔将という絶対的な格上の存在だった。
「さて、次は……貴様か。小賢しい細工をした盾を持っているな。魔力を喰らう不愉快な鉄板だ、跡形もなく消し飛べ」
ザガースの無機質な視線が、ハヤトを捉えた。
魔将の右手に、空間そのものを歪ませるほどの「漆黒の圧縮魔力球」が生み出される。直撃すれば、ギルドの建物ごと塵に帰すであろう絶対の破壊の塊。
「くそっ……!」
ハヤトは身構え、左腕のキャパシタシールドを掲げようとした。
しかし。
「――っ、が、あぁぁッ!?」
盾を持ち上げようとした瞬間、ハヤトの左腕に走ったのは、これまでにない破滅的な激痛だった。
ストーム・キマイラの雷撃を一人で無理やり受け止めた代償。限界まで酷使され、ズタズタに引き裂かれていた筋繊維が、ついに完全に断裂したのだ。
左腕がダラリと垂れ下がり、重厚な黒い大盾が「ゴトリ」と音を立てて床に落ちた。
「ハヤト!!」
ガルドの叫び声が響く。
ハヤトは激痛に顔を歪めながら、迫り来る漆黒の魔力球を見つめることしかできなかった。
腕が動かない。盾が拾えない。独りよがりな最適解で自分の肉体を壊した結果が、この決定的な無防備だった。
「死ね」
ザガースが腕を振り下ろし、漆黒の閃光がハヤトめがけて放たれた。
回避は不可能。防御も不可能。
死を覚悟し、ハヤトが目を閉じた――その直後だった。
「うおおおおおおッ!!」
凄まじい咆哮と共に、ハヤトの目の前に分厚い鋼鉄の壁が立ち塞がった。
ガルドだ。
彼は自身の身の丈ほどもある大盾を両手で構え、魔将の絶死の一撃を、真正面から受け止めたのだ。
ドゴォォォォォォォォォォォッ!!!
「ガルドさんッ!!」
漆黒の魔力と鋼鉄が激突し、凄まじい閃光と爆風が荒れ狂う。
ハヤトは目を開け、その信じられない光景に息を呑んだ。
「ぐ、が、がぁぁぁぁぁぁぁッ……!!」
ガルドの鋼鉄の大盾が、熱と圧力に耐えきれずにドロドロに溶け落ちていく。
さらに、魔力の余波が盾を貫通し、ガルドの分厚い鎧を、そして彼の強靭な肉体を容赦なく焼き焦がし、削り取っていた。
普通なら即死しているほどの一撃。それでもガルドは、両足のブーツから血を流し、骨が軋む音を立てながら、一歩たりとも後ろへ下がろうとはしなかった。
「ガルドさん! どいてください! このままじゃ死にます!」
「馬鹿野郎……ッ!」
ガルドは血を吐きながら、ハヤトに向けて怒鳴った。
「味方を守らねえ盾なんて……ただの鉄屑だって……言っただろうがッ!」
パキィィィンッ!!
限界を迎えたガルドの大盾が、無惨に砕け散った。
同時に、漆黒の魔力がガルドの胸を深々と貫き、彼の巨体がゆっくりと後方へ――ハヤトの足元へと崩れ落ちた。
「ガルドさん!!」
ハヤトは動かない左腕を引きずり、血だまりの中に倒れたガルドを抱き起こした。
致命傷だった。内臓は焼かれ、息をするたびに口から大量の血が溢れ出している。治癒魔法が間に合う状態ではないことは、誰の目にも明らかだった。
「……ハ、ヤト……」
「喋らないでください! 俺が……俺が一人で戦うなんて傲慢なことにならなければ……俺の左腕が動いていれば……!」
涙をボロボロとこぼし、ハヤトは自分の無力さを呪った。
ガルドは血に染まった手で、ハヤトの頬に触れた。
「……泣くな。盾役が……自分の命を張って、大事な仲間を守ったんだ。……本望、だろうが」
「ガルドさん……っ!」
「一人で……戦おうとすんじゃねえぞ。お前の作ったシステムは……仲間がいなきゃ、動かねえんだろ……。みんなと……繋がれ。ハヤト……」
微笑みを浮かべたまま、ガルドの手からパタリと力が抜け、地面に落ちた。
最強の戦士であり、ハヤトに盾役のすべてを教えてくれた師は、その役割を完璧に全うして、静かに息を引き取った。
「……あっ、ああ……あああぁぁぁぁぁッ!!」
ハヤトの絶望の慟哭が、廃墟と化した酒場に響き渡った。
「ふん。下等生物の自己犠牲など、無意味で滑稽なだけだ」
ザガースが冷酷に嗤い、再び手に漆黒の魔力を収束させ始める。
「仲良くあの世へ行くがいい。これで終わりだ」




