完全絶縁の暗殺者と、誘電分極
旧魔力炉の遺跡から持ち帰った古代のエネルギー結晶体は、セレスティアの部屋に厳重に保管されていた。
王都へ帰還した翌日の深夜。
ハヤトたちが滞在している高級宿屋の屋根を、音もなく疾走する影があった。
(……ルーベン卿も焦りすぎだ。たかが小娘と新米の冒険者に、この俺を差し向けるとはな)
影の正体は、裏社会で名を馳せる暗殺者『疾風のザイード』。
風の魔術によって自らの身体を加速させ、圧倒的なスピードで標的の首を刈り取るプロフェッショナルだ。
事前の情報によれば、標的の護衛には雷や静電気を操る厄介な少年がいるという。
だが、ザイードには何の脅威でもなかった。
彼の着ている漆黒のタイツと靴は、特殊な『砂漠のゴム樹』の樹液を幾重にも塗り込んだ、電気を通さない【絶縁体】だったからだ。
(電撃の類は一切通さない。……無力だぜ、坊主)
ザイードは音もなくセレスティアの部屋の窓枠に降り立ち、風の魔術で鍵を器用に外した。
彼が薄暗い室内へと足を踏み入れた、その瞬間だった。
「……遅かったな、ルーベン派の犬」
「なっ!?」
闇の中から、冷たい声が響いた。
部屋の隅、月明かりの届かない場所に、腕を組んで壁にもたれかかるハヤトの姿があった。
ベッドはもぬけの殻だ。セレスティアはすでに別の安全な部屋へと移されている。
「どうして俺の接近に気づいた……! 風の隠密術は完璧だったはずだ!」
「足音も風切り音も、確かに完璧だったよ。でも、俺の《荷電感知》には、空間の微弱な静電気が『不自然に遮断されている空白』が動いているのが丸見えだったんだ」
ハヤトが右腕のガントレットに鎖分銅をカチリと接続する。
「完全な絶縁体で全身を覆ってるんだろ? 電気を通さないってことは、俺のレーダーには『真っ黒な穴』として映るってことだ」
「……チッ。小賢しいガキが!」
ザイードは舌打ちをし、短刀を引き抜いて床を蹴った。
風の魔術による爆発的な加速。
人間の反射神経では到底追いつけない、文字通りの『疾風』の踏み込み。
「死ねぇッ!」
ザイードの刃がハヤトの首筋に迫る。
しかし、ハヤトは慌てることなく、床に向けて右手を突き出し、一気に静電気を放出した。
「通電ッ!」
「無駄だ! 俺のゴム装備に電撃は通らねぇ!」
ザイードが嘲笑う。
確かに、彼を感電させることはできない。雷の魔術なら完全に無効化されていただろう。
だが、ハヤトの放った電荷はザイードの身体ではなく、足元の『床の絨毯』に向けられていた。
強烈なマイナスの電荷を帯びた床。
その上を、絶縁体であるザイードのゴム靴が踏み込んだ瞬間。
「……あ!?」
ザイードの足が、見えないガムを踏んだように、ほんのわずかに床に「吸い付いた」。
『ふふん。無知な猿め。“誘電分極”を知らぬのか』
視界の端で、教授が高校物理の図解を展開する。
『電気を通さない絶縁体であっても、強力な静電気を近づければ、物質内部のプラスとマイナスの電荷がわずかに偏る。下敷きで髪の毛を擦ると、ただの紙くずが吸い寄せられるのと同じ理屈じゃ!』
完全に動きを止めるほどの力ではない。
しかし、風の魔術による「極限のスピードと繊細なバランス」で疾走していた暗殺者にとって、足の裏に突然発生した『予測外のわずかな引力』は、致命的なブレーキとなった。
「がっ、バランスが……!?」
ザイードの身体が前のめりに泳ぎ、必殺の刃の軌道が大きく逸れる。
「ゴムを着ていようが、物理現象の引力からは逃げられない」
ハヤトは短刀を紙一重でかわすと、すぐさま手元の鎖を横に振るった。
「そして、極限まで加速したお前の体には、巨大な『運動エネルギー』が乗っている。……急ブレーキをかけられたら、どうなるか分かるだろ」
「しまっ……!?」
足元を急激に引っ張られたことで、ザイードの上半身だけが猛烈な『慣性の法則』に従って前方にすっ飛んでいく。
自らの風の魔術によるスピードが、そのまま彼自身を壁へと叩きつける凶器に変わったのだ。
ドガァァァンッ!!
「ごはっ……あ、がぁっ……!」
石の壁に激突し、ザイードは血を吐いて床に崩れ落ちた。
彼を倒したのはハヤトの電気による直接攻撃ではない。
絶縁体という性質を逆手に取った『誘電分極』と、彼自身が作り出した強大すぎる『スピード(運動エネルギー)』そのものだった。




