クーロンの導きと、法則を知らぬ者たち
冷たい金属の通路をどれだけ走っただろうか。
ハヤトの息はとうに上がり、肺は焼けるように熱かった。
それでも足を止めなかったのは、背後から追ってくるはずの足音が、いつの間にか完全に途絶えていたからだ。
「はぁっ、はぁっ……ここまで来れば、ひとまずは……」
膝に手をつき、むせ返るような錆の匂いの中で息を整える。
周囲は完全な暗闇だったが、ハヤトの網膜には『電気回路入門』の姿が淡い青光を伴って投影されており、それが暗視ゴーグルのように周囲の地形をうっすらと浮かび上がらせていた。
『見事な逃走劇じゃったぞ、マスター』
視界の端をフワフワと漂う本の中から、お爺さんのようなしわがれた声が響く。
「あんた……本当に、ただのホログラムみたいなものなのか? 親父が遺した、ただの鉄の板じゃなかったのかよ」
『ただの幻影とは失礼な。儂は偉大なる知識の結晶であり、お前の案内役じゃ』
本が視界の中央へと移動し、空中でページをパラパラとめくる。
その動きに合わせて、ハヤトの目の前に青白い光の数式や図形が展開されていく。
『お前の父親が何を遺したかは知らんが、儂の起動キーはお前の生体電流じゃった。ならば、お前は正当な管理者じゃ。……さて、自己紹介は後回しにして、まずは生き残るための講義を始めようではないか』
空間に浮かぶ図形が、二つの小さな「粒」を映し出した。
『第2章、電荷とクーロンの法則じゃ』
「クーロン……?」
『世界のあらゆる物質は、目に見えぬ極小の粒で構成されておる。お前の“静電気”とは、その粒を強制的に移動させ、偏らせる力のことじゃ。そして、同じ性質の電荷は反発し、違う性質は引き合う。距離が近いほど、その力は爆発的に強くなる』
ハヤトは瞬きをした。
「反発し、引き合う……それが、俺の静電気の正体?」
『左様。ただパチパチ鳴らすだけの力ではない。対象の持つ極性を操作し、引力と斥力を支配する力じゃ。それを頭に叩き込め』
その言葉の意味をハヤトが完全に咀嚼するより早く、遠くの通路から、地鳴りのような重低音と閃光が轟いた。
◇
時間を少し遡る。
ハヤトを取り逃がした『紅蓮の剣』の面々は、苛立ちを隠せないまま遺跡の順路を強引に進んでいた。
「ええい、あのゴミめ! つまらん呪いを発動させおって!」
勇者が苛立たしげに壁を蹴りつける。
だが、彼らの本当の不運は、ハヤトを逃がしたことではない。
彼らの体内に蓄積した魔法の余剰熱を、大地へと逃がしてくれる『避雷針』を失ったことだ。
「勇者様、前方に奇妙な床があります」
雷魔術師が立ち止まり、杖の先で前方を指し示した。
通路の先、数十メートルにわたって、床面に青黒い金属板が敷き詰められている。
その表面には、チロチロと不気味な火花が這っていた。
古代のセキュリティシステムである『帯電トラップ』だ。
「フン。物理的な罠ならともかく、微弱な雷ごとき、俺の魔力障壁で容易く弾き返せる。強行突破するぞ」
勇者は魔力を全身に巡らせ、聖なる炎のオーラを纏った。
雷魔術師も同様に、自身の雷魔力を高めて防壁とする。
彼らは知らなかった。
電気は、抵抗の少ない道を通り、より電位の低い場所へと一気に流れ込むという性質を。
そして、全身を金属鎧で覆い、自ら強大な魔力(電荷)を帯びた彼ら自身が、この帯電エリアにおいて最高の『導体(通り道)』になってしまうことを。
「行くぞ!」
勇者が金属板の床に、重い鋼のブーツを踏み下ろした。
──その瞬間。
床に滞留していた数万ボルトの古代の電荷が、一斉に抵抗の少ない勇者の体を伝って逆流を開始した。
「なっ……!?」
勇者の魔力障壁など、電気の物理的な性質の前では何の意味も持たなかった。
炎のオーラを無視して、致死の電流が金属鎧の内側へと突き抜ける。
バチィィィィンッ!
「ぎゃあぁぁぁぁぁっ!?」
絶叫。
全身の筋肉が強制的に収縮し、勇者は一歩も前に進めないまま、その場でのけぞって痙攣した。
「ゆ、勇者様!? ええい、この忌まわしいトラップめ! 俺の雷で相殺してやる!」
雷魔術師が愚かにも、極大の雷撃魔法を床に向けて放った。
それは、火に油を注ぐ最悪の愚行だった。
新たな高圧電流がトラップの回路に追加され、キャパシティを超えたエネルギーが大爆発を引き起こす。
「あがっ、ごばぁっ……!?」
轟音と共に、勇者と雷魔術師は全身から黒焦げの煙を吹き上げ、通路の手前まで勢いよく吹き飛ばされた。
鎧はひしゃげ、自慢の杖は真っ二つに折れ曲がっている。
「がっ、あ……お、のれ……」
口から白煙を吐き出しながら、勇者は白目を剥いて完全に気を失った。
彼らはハヤトがいなくなったから弱くなったのではない。
ただ単に、世界を動かす法則に無知すぎたがゆえに、自滅しただけだった。
◇
遠くで響いた轟音と断末魔のような悲鳴に、ハヤトは小さく肩を揺らした。
「……今の音、あの人たちか?」
『放っておけ。導体と絶縁体の違いも分からぬ阿呆どもが、自分から電路に突っ込んだのじゃろう。自業自得じゃ』
網膜に投影された教授の顔アイコンが、呆れたように揺れる。
『それよりも、お前自身の心配をするんじゃな。前を見よ』
言われて顔を上げると、ハヤトの進む通路の先が、崩落した巨大な金属の瓦礫によって完全に塞がれていた。
隙間からは、微かに外の風が吹き込んでいる。
出口は近いが、この瓦礫を退かさなければ外には出られない。
「くそっ……俺の力じゃ、こんな重い鉄の塊、動かせないぞ」
『だからクーロンの法則を教えたのじゃ、マスター』
視界の端で、本が光を明滅させる。
『瓦礫に、お前の持つ電荷と同じ極性を流し込め。巨大な反発力(斥力)を生み出し、押し退けるのじゃ』
「反発力……!」
ハヤトは瓦礫の前に立ち、両手を冷たい金属の塊に押し当てた。
深く息を吸い込み、体内の奥底に残された魔力を、右腕から指先へと一気に集束させる。
──同じ性質を持つものは、反発する。
「うおおおおっ!」
バチバチと激しい火花が散り、瓦礫とハヤトの手の間に、目に見えない強烈な磁場のような反発力が発生した。
ギシッ、ギシギシッ!
何トンもあるはずの金属の瓦礫が、軋みを上げて少しずつ奥へとズレていく。
(いける……! 俺の静電気でも、こんな重いものを……!)
だが、その歓喜は一瞬で激痛に塗り潰された。
「がはっ……ぁぁっ!?」
全身の血管が沸騰したかのような焼ける痛みが、ハヤトの肉体を駆け巡る。
出力に、体が耐えきれないのだ。
貧困による慢性的栄養不足で細りきったハヤトの身体は、あまりにも貧弱すぎた。
大量の電流を無理やり流せば、細い導線はジュール熱によって自らを焼き切ってしまう。
『無理をするなマスター! その細い身体で限界以上の電流を流せば、お前自身の回路が自壊するぞ!』
「ここで止まったら……あの外道どもと、同じ穴で死ぬだけだッ!」
ハヤトは歯を食いしばり、口の中を切った血の味を飲み込みながら、さらに力を振り絞った。
筋肉の繊維がぶちぶちと悲鳴を上げる。
骨が軋み、視界が真っ赤に染まる。
それでも、ハヤトは押し切った。
「どけぇぇぇぇぇっ!!」
ガゴォォォォンッ!!
爆発的な斥力が瓦礫を吹き飛ばし、完全に崩落を押し退けた。
開いた大穴から、夜明けの冷たい風と、眩しい朝日が遺跡の中に差し込んでくる。
「はぁっ、はぁっ……」
ハヤトはそのまま崩れ落ちるように膝をつき、激しく咳き込んだ。
右腕の感覚は完全に消失し、全身の筋肉が痙攣して言うことを聞かない。
知識があっても、それを扱うための肉体が追いついていないという、残酷な現実だった。
『……無茶をやりおって。だが、見事じゃ』
教授の呆れたような、しかしどこか誇らしげな声が響く。
ハヤトは痛む体を引きずりながら、朝日の中へと足を踏み出した。
振り返れば、暗く淀んだ古代遺跡の入り口が、ぽっかりと口を開けている。
もはや、あの理不尽な勇者たちに媚びへつらう必要はない。
「……生きて、出られた」
朝の光を浴びながら、ハヤトは空を見上げた。
最弱の魔力と、ボロボロの肉体。
それでも彼の視界の端には、世界の理を書き換えるための『本』が、確かに息づいていた。




