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クーロンの導きと、法則を知らぬ者たち

冷たい金属の通路をどれだけ走っただろうか。

ハヤトの息はとうに上がり、肺は焼けるように熱かった。

それでも足を止めなかったのは、背後から追ってくるはずの足音が、いつの間にか完全に途絶えていたからだ。




「はぁっ、はぁっ……ここまで来れば、ひとまずは……」




膝に手をつき、むせ返るような錆の匂いの中で息を整える。

周囲は完全な暗闇だったが、ハヤトの網膜には『電気回路入門』の姿が淡い青光を伴って投影されており、それが暗視ゴーグルのように周囲の地形をうっすらと浮かび上がらせていた。




『見事な逃走劇じゃったぞ、マスター』




視界の端をフワフワと漂う本の中から、お爺さんのようなしわがれた声が響く。





「あんた……本当に、ただのホログラムみたいなものなのか? 親父が遺した、ただの鉄の板じゃなかったのかよ」




『ただの幻影とは失礼な。儂は偉大なる知識の結晶であり、お前の案内役じゃ』




本が視界の中央へと移動し、空中でページをパラパラとめくる。

その動きに合わせて、ハヤトの目の前に青白い光の数式や図形が展開されていく。




『お前の父親が何を遺したかは知らんが、儂の起動キーはお前の生体電流じゃった。ならば、お前は正当な管理者マスターじゃ。……さて、自己紹介は後回しにして、まずは生き残るための講義を始めようではないか』




空間に浮かぶ図形が、二つの小さな「粒」を映し出した。




『第2章、電荷とクーロンの法則じゃ』




「クーロン……?」





『世界のあらゆる物質は、目に見えぬ極小の粒で構成されておる。お前の“静電気”とは、その粒を強制的に移動させ、偏らせる力のことじゃ。そして、同じ性質の電荷は反発し、違う性質は引き合う。距離が近いほど、その力は爆発的に強くなる』




ハヤトは瞬きをした。




「反発し、引き合う……それが、俺の静電気の正体?」




『左様。ただパチパチ鳴らすだけの力ではない。対象の持つ極性を操作し、引力と斥力を支配する力じゃ。それを頭に叩き込め』




その言葉の意味をハヤトが完全に咀嚼するより早く、遠くの通路から、地鳴りのような重低音と閃光が轟いた。











時間を少し遡る。

ハヤトを取り逃がした『紅蓮の剣』の面々は、苛立ちを隠せないまま遺跡の順路を強引に進んでいた。




「ええい、あのゴミめ! つまらん呪いを発動させおって!」




勇者が苛立たしげに壁を蹴りつける。

だが、彼らの本当の不運は、ハヤトを逃がしたことではない。

彼らの体内に蓄積した魔法の余剰熱ノイズを、大地へと逃がしてくれる『避雷針』を失ったことだ。




「勇者様、前方に奇妙な床があります」




雷魔術師が立ち止まり、杖の先で前方を指し示した。

通路の先、数十メートルにわたって、床面に青黒い金属板が敷き詰められている。

その表面には、チロチロと不気味な火花が這っていた。

古代のセキュリティシステムである『帯電トラップ』だ。




「フン。物理的な罠ならともかく、微弱な雷ごとき、俺の魔力障壁で容易く弾き返せる。強行突破するぞ」




勇者は魔力を全身に巡らせ、聖なる炎のオーラを纏った。

雷魔術師も同様に、自身の雷魔力を高めて防壁とする。

彼らは知らなかった。

電気は、抵抗の少ない道を通り、より電位の低い場所へと一気に流れ込むという性質を。

そして、全身を金属鎧で覆い、自ら強大な魔力(電荷)を帯びた彼ら自身が、この帯電エリアにおいて最高の『導体(通り道)』になってしまうことを。




「行くぞ!」




勇者が金属板の床に、重い鋼のブーツを踏み下ろした。

──その瞬間。

床に滞留していた数万ボルトの古代の電荷が、一斉に抵抗の少ない勇者の体を伝って逆流を開始した。




「なっ……!?」




勇者の魔力障壁など、電気の物理的な性質の前では何の意味も持たなかった。

炎のオーラを無視して、致死の電流が金属鎧の内側へと突き抜ける。

バチィィィィンッ!




「ぎゃあぁぁぁぁぁっ!?」




絶叫。

全身の筋肉が強制的に収縮し、勇者は一歩も前に進めないまま、その場でのけぞって痙攣した。




「ゆ、勇者様!? ええい、この忌まわしいトラップめ! 俺の雷で相殺してやる!」




雷魔術師が愚かにも、極大の雷撃魔法を床に向けて放った。

それは、火に油を注ぐ最悪の愚行だった。

新たな高圧電流がトラップの回路に追加され、キャパシティを超えたエネルギーが大爆発を引き起こす。




「あがっ、ごばぁっ……!?」




轟音と共に、勇者と雷魔術師は全身から黒焦げの煙を吹き上げ、通路の手前まで勢いよく吹き飛ばされた。

鎧はひしゃげ、自慢の杖は真っ二つに折れ曲がっている。




「がっ、あ……お、のれ……」




口から白煙を吐き出しながら、勇者は白目を剥いて完全に気を失った。

彼らはハヤトがいなくなったから弱くなったのではない。

ただ単に、世界を動かす法則に無知すぎたがゆえに、自滅しただけだった。











遠くで響いた轟音と断末魔のような悲鳴に、ハヤトは小さく肩を揺らした。




「……今の音、あの人たちか?」




『放っておけ。導体と絶縁体の違いも分からぬ阿呆どもが、自分から電路に突っ込んだのじゃろう。自業自得じゃ』




網膜に投影された教授の顔アイコンが、呆れたように揺れる。




『それよりも、お前自身の心配をするんじゃな。前を見よ』




言われて顔を上げると、ハヤトの進む通路の先が、崩落した巨大な金属の瓦礫によって完全に塞がれていた。

隙間からは、微かに外の風が吹き込んでいる。

出口は近いが、この瓦礫を退かさなければ外には出られない。




「くそっ……俺の力じゃ、こんな重い鉄の塊、動かせないぞ」





『だからクーロンの法則を教えたのじゃ、マスター』






視界の端で、本が光を明滅させる。





『瓦礫に、お前の持つ電荷と同じ極性を流し込め。巨大な反発力(斥力)を生み出し、押し退けるのじゃ』






「反発力……!」




ハヤトは瓦礫の前に立ち、両手を冷たい金属の塊に押し当てた。

深く息を吸い込み、体内の奥底に残された魔力を、右腕から指先へと一気に集束させる。

──同じ性質を持つものは、反発する。





「うおおおおっ!」




バチバチと激しい火花が散り、瓦礫とハヤトの手の間に、目に見えない強烈な磁場のような反発力が発生した。

ギシッ、ギシギシッ!

何トンもあるはずの金属の瓦礫が、軋みを上げて少しずつ奥へとズレていく。




(いける……! 俺の静電気でも、こんな重いものを……!)




だが、その歓喜は一瞬で激痛に塗り潰された。




「がはっ……ぁぁっ!?」




全身の血管が沸騰したかのような焼ける痛みが、ハヤトの肉体を駆け巡る。

出力に、体が耐えきれないのだ。

貧困による慢性的栄養不足で細りきったハヤトの身体は、あまりにも貧弱すぎた。

大量の電流を無理やり流せば、細い導線はジュール熱によって自らを焼き切ってしまう。





『無理をするなマスター! その細い身体で限界以上の電流を流せば、お前自身の回路が自壊するぞ!』




「ここで止まったら……あの外道どもと、同じ穴で死ぬだけだッ!」




ハヤトは歯を食いしばり、口の中を切った血の味を飲み込みながら、さらに力を振り絞った。

筋肉の繊維がぶちぶちと悲鳴を上げる。

骨が軋み、視界が真っ赤に染まる。

それでも、ハヤトは押し切った。




「どけぇぇぇぇぇっ!!」




ガゴォォォォンッ!!

爆発的な斥力が瓦礫を吹き飛ばし、完全に崩落を押し退けた。

開いた大穴から、夜明けの冷たい風と、眩しい朝日が遺跡の中に差し込んでくる。




「はぁっ、はぁっ……」




ハヤトはそのまま崩れ落ちるように膝をつき、激しく咳き込んだ。

右腕の感覚は完全に消失し、全身の筋肉が痙攣して言うことを聞かない。

知識があっても、それを扱うための肉体が追いついていないという、残酷な現実だった。




『……無茶をやりおって。だが、見事じゃ』




教授の呆れたような、しかしどこか誇らしげな声が響く。

ハヤトは痛む体を引きずりながら、朝日の中へと足を踏み出した。

振り返れば、暗く淀んだ古代遺跡の入り口が、ぽっかりと口を開けている。

もはや、あの理不尽な勇者たちに媚びへつらう必要はない。




「……生きて、出られた」




朝の光を浴びながら、ハヤトは空を見上げた。

最弱の魔力と、ボロボロの肉体。

それでも彼の視界の端には、世界の理を書き換えるための『本』が、確かに息づいていた。

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