第20話:残響
夜の研究棟は、完全に封鎖されているはずだった。
鉄扉には軍の封蝋、厚い溶接痕。
空気は静まり返り、まるでこの場所が現実から切り離されたようだった。
――それでも、音は聞こえた。
> ぴちゃん。
最初は、水漏れの錯覚だと思った。
だが、伊庭はその音に覚えがあった。
病院のベッドに横たわり、眠れぬ夜を過ごしていた彼女の耳に、壁の向こう
――あの施設の方角から、確かに水の音が届いていたのだ。
その音は、秒針のように一定だった。
まるで、止まった時間がまだ“息をしている”ように。
彼女は起き上がり、上着を羽織って外に出た。
街は眠り、霧が濃かった。
足音を消しながら、かつての研究棟へ向かう。
鉄扉の前に着く。
封鎖線はそのままだった。
けれど、扉の下にわずかな隙間があり、そこから薄く湿った空気が流れ出ていた。
「……誰か、いるの?」
問いかける声は、霧の中に溶けた。
返事はない。
しかし、耳を澄ますと、内側で何かがゆっくり動く音がした。
――ぴちゃん。
今度は明確に。
確かに、響いた。
伊庭は震える手で鉄扉に触れた。
冷たい。
けれど、その奥からは“温度”を感じた。
まるで、誰かが向こう側で息をしているかのように。
「……黒瀬顧問……?」
声を出した瞬間、耳元で微かな反響があった。
> 「……伊庭、君か。」
息が止まった。
扉の内側――その声は確かに、黒瀬のものだった。
「顧問……生きて……?」
彼女の頬を、涙が伝う。
返答は、しばらくなかった。
そして、再び、低い声が響いた。
> 「中に、久保がいる。」
> 「……“中”?」
> 「外の時間は、止まっている。
> 君たちの時計は進んでいるか?」
伊庭は言葉を失う。
時計……?
視線を落とすと、腕時計の針が12秒で止まっていた。
その瞬間、扉の隙間から光が漏れた。
白い――いや、水のような光。
流れ出すわけでも、照らすわけでもない。
ただ“こちら”を覗くように滲んでいる。
伊庭は一歩、後ずさる。
「顧問……中に、久保さんが?」
> 「見た。鏡の向こうに、彼の顔があった。」
黒瀬の声が一瞬だけ乱れた。
ノイズが混ざり、声が二重に聞こえる。
> 「笑っていたよ。――あの時と同じだ。」
――ぴちゃん。
扉の向こうの音が、彼の言葉を遮った。
光が弱まり、声も消える。
ただ残ったのは、水の音だけ。
夜明け。
伊庭は膝をつき、頭を抱えていた。
空は白み始めている。
彼女の足元には、小さな水たまりができていた。
その水面に、誰かの顔が映る。
久保。
彼は静かに口を動かした。
> 「まだ、中にいる。」
――ぴちゃん。
波紋が広がり、映像が消えた。
数時間後。
警備隊が見回りに来たとき、鉄扉の表面に水滴が浮かんでいたという。
その滴は、形を成して文字を描いていた。
FROM INSIDE
ECHO ACTIVE
00:00:12
風が吹き抜け、滴は消えた。
けれど、その後もしばらく、静かな水音だけが残っていた。
――ぴちゃん。




