第17話:儀式の崩壊
――静かだった。
それが、最初の異変だった。
警告音も、空調の唸りも止んでいた。
残っているのは、時計の針が空気を裂くような微かな音だけ。
00:00:12――そこから、もう進まない。
久保は息を潜め、動けずにいた。
周囲の研究員たちは、みな鏡を見つめたまま固まっている。
まるで呼吸すら忘れたように。
鏡面の奥では、水が揺れていた。
だが、それは液体の動きではない。
空気そのものが水中のように歪んでいる。
部屋全体が、ゆっくりと沈みはじめていた。
「主任……?」
声を出したのは誰か。
もう判別がつかない。
音が、波に引き伸ばされて遠のく。
耳鳴りのような残響だけが続く。
――ぴちゃん。
その一音で、世界が軋んだ。
ガラスが鳴り、壁がわずかに波打つ。
照明の光が液体の中のように屈折して、人影が複数に分裂する。
黒瀬の姿はもう見えない。
ただ、鏡の中心に人の形をした光が浮かんでいた。
その輪郭はゆっくりと崩れ、光の粒へと変わっていく。
久保が叫ぼうとした瞬間、誰かの声がそれを先に言った。
いや、自分の声だった。
> 「……見られている。」
その言葉が部屋全体で反響する。
男の声、女の声、複数の音程。
どれも同じ言葉。
同時に、全員の口が――勝手に開いた。
> 「――見られている。
> 見られている。
> 見られている。」
声が重なり、言葉が祈りのように変化していく。
低音、高音、囁き、叫び――すべてが重なり、意味を失った音の儀式になっていった。
鏡面のガラスが振動する。
波紋が広がり、そこから水がこぼれ落ちる。
だが床は濡れない。
水は空中に浮かび、光を散らして宙を泳いでいた。
時間が、ゆっくりと巻き戻る。
時計の針が“カチ、カチ”と逆方向に動き、やがて再び00:00:12で止まった。
久保の目に、光景が二重に映る。
鏡の向こう側の研究室と、こちら側の研究室。
両方が同じ形で重なり合い、外と内が完全に反転している。
そして――その中心に、伊庭の姿が現れた。
白衣は水に溶け、髪が宙に漂う。
彼女の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
唇が動く。
> 「もう……止められない。」
声は届かない。
だが、鏡面全体に波が走り、装置のガラスが細かく亀裂を走らせた。
――ぴちゃん。
最後の音が、鐘のように響く。
それと同時に、ガラスが砕け散った。
破片が空気中に浮かぶ。
水のようにゆっくりと落ちていく。
そこには重力も、時間も、もはや存在しなかった。
久保が見た最後の光景は、砕けたガラス片の一枚一枚に映る“自分たちの顔”。
その全てが、わずかに遅れて笑っていた。
静寂。
音が止んだ。
研究棟全体が沈黙している。
機器の記録ランプだけが、微かに点滅を続けていた。
FROM INSIDE
RITUAL: BROKEN
STATUS: REVERSED
――ぴちゃん。
それは、もう水音ではなかった。
“観察の心臓”の鼓動だった。




