第14話:反射
「……伊庭、やめろ!」
斎藤の声が響くより早く、伊庭は鏡の前に立っていた。
反射実験室の照明はすでに落とされ、ただ一点――鏡面の奥だけが白く光っている。
その光が、彼女の瞳を焼くように揺れていた。
「何かが……呼んでます。」
伊庭の声はかすかに震えていた。
「あの中で、私の名前を――」
「聞こえるはずがない。反射波だ。」
斎藤は制止のために手を伸ばした。
だが、その指先が届く前に、鏡の中で伊庭の口が動いた。
違う。
“中の伊庭”の口だけが、独立して動いている。
外の彼女は、ただ見つめているだけなのに。
> 「……見ないで。」
囁きが、遅れて返ってきた。
現実の伊庭は声を発していない。
それでも、空気の震えが確かに耳を打つ。
「主任……今の、聞こえました?」
「音源はここじゃない……反射内の遅延。いや、それより――」
“中の伊庭”がもう一度口を開いた。
そして今度は、外の伊庭の声と完全に重なった。
> 「見ないで。見たら、変わる。」
「止めろ!」
斎藤が叫ぶ。
だが伊庭の目は鏡から離れない。
鏡面の奥で、光がゆっくりと赤く濁り始めた。
――ぴちゃん。
水音が響く。
鏡の下端に、黒い水面が広がっていく。
そこに映る“彼女の口”が、まるで別のもののように蠢いた。
「主任……声が、遅れて返ってきてます。」
「それは残響だ。いや――違う、これは――」
スピーカーから、数秒遅れて斎藤自身の声が流れた。
録音装置は動いていない。
それでも、鏡の奥から彼の声が“再生”されている。
> 「止めろ! 止めろ!」
同じ台詞が二重に重なる。
現実の声と、鏡の中の声。
そのわずかなズレが、音の輪を作って部屋を包む。
気づけば空気が逆流していた。
伊庭の髪が宙に浮き、白衣の裾がひるがえる。
鏡の表面が、水のように波打っている。
「主任……」
「見るな!」
だが彼女の視線は離れなかった。
光が彼女の瞳に反射し、その中心にもうひとつの顔――“別の自分”が映り込む。
> 「――こっちへ。」
鏡の中の伊庭が微笑んだ瞬間、光が弾けた。
部屋全体が白く染まり、音が消える。
次に目を開けたとき、斎藤は床に倒れていた。
周囲は静寂。
鏡は、ただのガラスの板に戻っていた。
伊庭の姿は、どこにもなかった。
ただ――鏡の奥で、微かに口が動いている。
音は届かない。
けれど、その形は確かに読めた。
> 「――見てるのは、あなた。」
――ぴちゃん。
時計の針が、00:00:12を指して止まった。




