第12話:記録者の手記①(前篇)
――記録者:久保正蔵
――日付:不明
――記録媒体:紙/インク消失性高
――状態:判読困難
(以下、原文を一部転写)
> ……これが、私の最後の報告になるかもしれない。
> 斎藤主任が消えてから、もう何日が経ったのか分からない。
> 時計は、どれも十二秒で止まったままだ。
> 夜と昼の区別も、次第につかなくなっている。
久保は震える手で、紙を押さえた。
ペン先から滴るインクが、書いた傍から滲んでいく。
書くたびに、紙の繊維がざわつく。
耳の奥では、あの音が途切れず響いていた。
――ぴちゃん。
「音が近い。」
口に出した瞬間、反響が返ってくる。
誰もいないはずの部屋で、自分の声が“他人の声”のように返ってくる。
壁のガラスに反射する自分の姿が、少し遅れて笑った。
> ……私はいま、観察されている。
> 記録を書いている私を、誰かが見ている。
> もしかすると、それは私自身なのかもしれない。
> だが、どちらが“外”にいるのか、もう分からない。
照明がちらついた。
紙の上に、淡い波紋が広がる。
机に水をこぼした覚えはない。
それでもインクが滲み、文字が崩れていく。
「……まだ、見てるのか。」
目を上げた。
向かいの壁に立てかけられた鏡――いや、“あれ”はもう鏡ではない。
奥の方で、揺れる光。
青白い水面の下から、誰かの手がゆっくりと伸びてくる。
「主任……ですか。」
返事はない。
ただ、光の中で“彼の白衣”が揺れた。
次の瞬間、手元のノートが勝手にめくれる。
一枚、一枚、見えない風に押されて。
止まったのは、まだ白紙のページ。
そこに、黒い文字が浮かび上がる。
FROM INSIDE
WRITE FOR US
「……書け、っていうのか。」
久保はペンを握り直す。
手首が勝手に動いた。
意識していないのに、筆跡は自分のものだった。
だが、書かれていく言葉は知らない文だった。
> 「00:00:12。境界は薄れる。
> 外と内は、互いの視線で形を保つ。
> 記録は祈り。祈りは観察。」
ペン先が止まらない。
脳の奥で誰かが語りかけてくるように、言葉が溢れ続けた。
> 「見る者は見られる者となり、
> 記す者は記される者となる。
> 反射の向こうに立つ者は、
> すでにこの手記を読んでいる。」
「やめろっ!」
久保はペンを叩きつけた。
インクが飛び散り、床に黒い雫が散る。
それがゆっくりと形を成す。
丸い輪――水滴の跡。
そこから、小さな音がした。
――ぴちゃん。
震える手で紙を掴み、ページを閉じる。
だが、手記の裏側から光が滲み、逆光で新しい文字が浮かんだ。
> 「あなたの番だ。」
久保は立ち上がり、壁際の鏡を見た。
そこには、確かに“自分”がいた。
ただし、反射の“中”で。
「……俺が、“中”だったのか。」
反射の中の久保が、ゆっくりと口を開く。
同じ声が、同じ息で響く。
> 「――もう、交代の時間だ。」
――ぴちゃん。
光が弾け、部屋は真白に染まった。
机の上には開かれたノートだけが残り、最後の行にはこう記されていた。
RECORD COMPLETE
FROM INSIDE: KUBO
その夜、研究棟を封鎖した警備員が地下の明かりに気づいたという。
だが、確認に入ったとき、室内には誰もいなかった。
ただ、壁一面が“文字のような水跡”で覆われていたという。
――その形は、まるで無数の瞳が覗いているように見えた。




