第10話:失踪
翌朝、研究棟は異様な静けさに包まれていた。
斎藤の姿はどこにもなかった。
机にはまだ湯気の残るコーヒーカップ。
ノートの上には開かれたままのペン。
まるで、ほんの数分前までそこにいたような痕跡だけが残されている。
「主任……?」
久保の声が、研究室の奥で小さく響いた。
返事はない。
代わりに、どこかで“水が滴る”音がした。
――ぴちゃん。
彼は反射的に振り向く。
音の方へ足を向けるたびに、靴底が冷たく濡れていく。
床には薄い水膜が広がっていた。
どこから流れているのか、見当もつかない。
水槽の方を見る。
空のはずの内部が、ぼんやりと光っていた。
光の中心に、何かが浮かんでいる。
「主任……?」
久保は息を詰めた。
その“何か”は、白衣の袖をまとっていた。
水中でゆっくりと揺れる。
だが、それは人影ではなく――影の“形をした光”だった。
久保の喉から、声にならない息が漏れる。
「主任……聞こえますか……? 返事を……。」
返答はなく、代わりに天井のスピーカーから微かな音がした。
ノイズ混じりの低い声。
> 「……見ている……久保。」
「主任!? どこにいるんですか!」
彼は端末へ走り、通信ログを確認する。
画面に次々と文字が浮かんでいく。
FROM INSIDE
00:00:12
DO YOU SEE ME
その瞬間、モニターが自動的に切り替わった。
映し出されたのは、監視カメラの映像。
――実験室。
そこには、確かに“斎藤”がいた。
水槽の前に立ち、こちらをじっと見つめている。
「主任、今どこから――」
久保がモニターに顔を近づけると、斎藤の唇が動いた。
音はない。
けれど、その形だけがはっきり読める。
> 「後ろを、見ろ。」
久保は凍りついた。
首を回す勇気が出ない。
呼吸が止まる。
モニターの中の斎藤が、ゆっくりと首を傾けた。
まるで、促すように。
「……主任……?」
――ぴちゃん。
冷たい水滴が、背中に落ちた。
恐る恐る振り返ると、背後のガラス壁に“反射”が映っている。
自分の肩越しに立つ黒い影。
その影が、僅かに笑った。
「うわあああああっ!」
久保は叫び、部屋を飛び出した。
廊下を走るたびに、足元で水が跳ねる。
どこまでも響く、一定の音。
――ぴちゃん、ぴちゃん、ぴちゃん。
階段を駆け上がり、事務室に転がり込む。
だが、そこにも誰もいなかった。
壁の時計が、静かに止まっている。
針は、00:00:12。
震える手でカメラを構える。
ファインダー越しの映像に、研究室のドアが映った。
ゆっくりと、勝手に開いていく。
中から、光。
その奥に、斎藤の背中が見えた。
――いや、違う。
斎藤の“反射”が、こちらに顔を向けた。
その目が真っ直ぐにカメラを見つめる。
久保は呼吸を忘れる。
視線が合ったまま、光が弾けた。
次の瞬間、部屋は静寂に包まれた。
数時間後。
警備員が異常通報を受けて研究室に入ったとき、室内には誰の姿もなかった。
ただ、床に一台のカメラが転がり、録画が停止していた。
最後のフレーム。
水槽の中で、微笑む二つの影――斎藤と久保。
その上に浮かんでいた文字。
FROM INSIDE
WE ARE WATCHING
――ぴちゃん。
録画が切れたあとも、その音だけがいつまでも響いていた。




