第9話:00:00:12
夜の研究棟。
時計の針が“00:00:12”で止まったまま、誰もいないはずの実験室に微かな光が灯っていた。
ガラスの水槽の中で、冷たい波紋がゆっくりと揺れる。
斎藤はひとり、モニターの前に座っていた。
机の上には伊庭の記録ファイル。
白く乾いた涙痕が紙に残っている。
「……君は、最後まで“見ていた”のか。」
呟きは空気に溶けて消える。
端末の電源を入れると、例の文字が勝手に立ち上がった。
FROM INSIDE
00:00:12
画面の裏側から光が滲み、まるで誰かが中から押しているように波打つ。
斎藤は指でその表面をなぞった。
冷たい。
だが、確かに“向こう側”の温度が伝わってくる。
「……境界を、越えたのか。」
久保が静かに部屋へ入ってきた。
やつれた顔。
カメラを首から提げ、硬い声を絞り出す。
「主任。軍が、また実験を要求しています。“成功例”として報告が行ったらしい。黒瀬顧問の名前で。」
「黒瀬は死んだはずだ。」
「はい。なのに、今日、本部から届いた通達の署名が……彼の筆跡でした。」
斎藤は動かない。
ただ視線を水槽に向けた。
青白い照明が、空のはずの中で揺らめいている。
「久保。」
「はい。」
「この音を聞くか?」
――ぴちゃん。
耳に触れた途端、久保の顔色が変わった。
「……まただ。主任、音が……。」
「記録はされていない。マイクも動いていない。」
「じゃあ……どこから?」
「“向こう”だ。」
斎藤の瞳が光を映す。
「彼女が言っていた。“時間の向こうから見られている”と。」
久保は背筋を強張らせながらも、恐る恐る問い返した。
「主任、まさか、また――」
「確かめる。12秒後に、何が起きるのか。」
時計を手に取り、秒針を合わせる。
針がゆっくりと回り始める。
カチ、カチ、カチ……
水槽の底で、白い光が滲む。
空間全体がわずかに歪み、蛍光灯が明滅する。
「主任、やめましょう!」
「黙れ。」
00:00:10――冷気が足元を這い上がる。
00:00:11――水槽の中の光が人の形を成していく。
00:00:12――
――ぴちゃん。
時間が止まった。
音も、呼吸も、何もかも。
斎藤は立ったまま、ゆっくりと振り向く。
そこには鏡面のような空間が広がり、向こう側に立つ“自分自身”がいた。
「……君は、誰だ。」
相手は笑った。
その唇の動きは、声を出さなくても読めた。
> 「私は、あなたが“見た”者。」
モニターが一斉に点灯する。
複数のカメラ映像が自動再生され、映っているのは――水槽の前に立つ斎藤の姿。
彼は同じようにこちらを見て、まるで無限の鏡の中に閉じ込められたかのようだ。
「主任! 離れてください!」
久保の声も遠い。
斎藤の瞳がゆっくりと光を帯びていく。
ガラス面に“内側から”手が押し当てられる。
その輪郭が重なる。
――ぴちゃん。
斎藤の体が一瞬、光に飲まれた。
久保が叫ぶ。
「主任!!」
光が消える。
部屋は静寂に戻った。
水槽の中は、空。
ただ、ガラスの内側に斎藤の笑みが映っていた。
モニターの文字が自動で更新される。
FROM INSIDE
HE IS WATCHING
久保の手が震えた。
「……主任……?」
そのとき、部屋のスピーカーから、微かな声が流れた。
> 「……見ている……。」
久保は泣きながらカメラを握りしめた。
記録しなければ、と思った。
しかしその瞬間、液晶画面の中に映った自分の姿が――笑っていた。
――ぴちゃん。
時計は動かない。
針は、永遠に“00:00:12”を指したままだった。




