第8話:彼女の瞳
病室の窓から、鈍い午後の光が差し込んでいた。
伊庭はベッドに横たわり、包帯の下でわずかにまぶたを動かす。
その瞳は、半分だけ開かれていた。
焦点はどこにも合っていない。
「反応は?」
斎藤が問う。
「……視覚野に異常なし。ただ、瞳孔の反射が逆転してます。」
医務員が計測器を見ながら答える。
「光を当てると、拡張するんです。普通は収縮するはずなんですが。」
「収縮の逆転……。まるで“光を吸ってる”みたいだ。」
斎藤は静かに呟いた。
伊庭の睫毛がわずかに震える。
その瞬間、医務員が顔を上げた。
「今、動きました。」
「意識回復か?」
「いえ……でも、反応があります。」
斎藤は椅子を寄せ、伊庭の側に座る。
「伊庭君、聞こえるか。」
返事はない。
だが、彼女の唇がほんの少し動いた。
音にはならない。
斎藤は息を詰めて、その形を読み取った。
> 「見てる。」
「……誰が?」
問う声が震えた。
伊庭のまぶたが、ゆっくりと開く。
その瞳に映っていたのは、斎藤の顔――ではなかった。
鏡の中の部屋。
あの日の実験室。
そして、鏡の前に立つ“もう一人の斎藤”。
「……主任、後ろに……!」
久保が駆け込んできた。
斎藤が反射的に振り返る。
病室の壁には何もない。
ただ窓の外で、光が一瞬だけ反射した。
「錯覚だ。」
「主任、あれ……」
久保の声が途切れる。
伊庭の瞳に、彼の姿が映っていた。
だが、その映像が少しずつズレていく。
笑っていないはずの久保が、瞳の中では微笑んでいた。
「やめろ、見るな!」
斎藤が叫んだ。
伊庭の視線が震え、涙がこぼれる。
その涙は透明ではなく、わずかに白く濁っていた。
床に落ちると、小さな水音が響く。
――ぴちゃん。
誰も動けなかった。
その音に、部屋の空気が一瞬だけ沈黙する。
モニターがチリ、と鳴って点滅した。
画面に文字が浮かび上がる。
00:00:12
FROM INSIDE
「主任……まただ。」
久保が青ざめる。
斎藤は立ち上がり、端末を確認する。
通信記録は途絶え、ログの発信源が不明になっていた。
「……“中”から出てきている。」
低く呟くと、伊庭の唇がまた動いた。
> 「主任……後ろ。」
斎藤は、振り返らなかった。
彼女の瞳の奥に、既に答えがあったからだ。
そこには、鏡面のような光の中で立つ“黒瀬”の影。
あの顧問が、笑っていた。
その瞬間、伊庭の身体がびくりと震え、モニターが一斉に警告音を鳴らす。
「心拍上昇!」
「光反応が――」
斎藤は叫ぶように指示を飛ばした。
「照明を落とせ! 光を遮断しろ!」
だが遅かった。
伊庭の瞳が、再び鏡のように光を反射する。
ベッドサイドのガラス瓶に、波紋が広がった。
――ぴちゃん。
水音が鳴り止んだとき、彼女の瞳は完全に閉じていた。
その表情は穏やかで、まるで眠っているようだった。
けれど、その瞳の奥に――まだ、微かな光が揺れていた。




