第6話:視線干渉
翌朝、研究棟の窓は白い霧に包まれていた。
光はあっても影がなく、世界全体が曖昧に溶けているようだった。
実験室には、昨日の空気の残響だけが漂っている。
黒瀬顧問の姿はもうなかった。
軍本部へ報告に戻ると告げたきり、連絡は途絶えている。
「主任……本当に行かせてよかったんですか?」
久保が不安げに問う。
斎藤は机の上に並べたフィルムを一枚ずつ確認しながら答えた。
「記録がすべてだ。現象は再現できる。」
「再現……?」
伊庭が小さく息を飲む。
「あの“怒り”をですか。」
斎藤はペンを止め、二人に視線を向けた。
昨夜の出来事を思い出すたび、背筋が粟立つ。
それでも言葉は冷静だった。
「我々は感情を扱っているのではない。“反応”だ。」
「でも、鏡の“中”に誰かいるようにしか――」
「だからこそ確かめる。」
斎藤は端末を起動し、カメラとマイクを同期させた。
スクリーンに昨日の映像が映し出される。
黒瀬が鏡を覗き込む直前、波紋が広がる瞬間。
フレームを止め、拡大する。
「見ろ。ここだ。」
鏡の縁――光の屈折に混じって、淡い輪郭が浮かんでいた。
人の目のような形。
まるで、こちらを“覗いて”いるように。
「……被写体は黒瀬顧問の背後、距離にして約二メートル。」
「でも、あのとき後ろには――」
「誰もいない。」
斎藤の声が重く落ちた。
しばらくの沈黙。
伊庭は小さく十字を切るような仕草をした。
「主任。……この現象を、まだ“科学”だと信じてますか?」
「信じるかどうかではない。観測された事実だ。」
「観測してるのは、私たちですよね?」
「そうだ。」
「じゃあ、向こうも私たちを“観測”しているとしたら?」
斎藤は言葉を失った。
モニターの映像が、わずかにノイズを走らせた。
画面の奥で、黒瀬の影が遅れて動く。
「……今、映像が動いた?」
久保が身を乗り出す。
停止したはずのフレームが、ほんのわずかに揺れた。
その歪みの中に、別の映像が重なる。
鏡の奥――青白い空間に、三つの影。
それは彼ら自身の姿だった。
「主任……これ、ライブ映像じゃないですよね。」
「録画だ。……のはずだ。」
再生バーが動いていない。
だが映像の“彼ら”は、確かに呼吸をしていた。
伊庭が震える声で囁く。
「……反射じゃない。」
「反射なら、動きが同期する。これは――」
「――干渉。」
久保が代わりに言った。
「向こうの私たちが、こっちを見てる。」
瞬間、映像の中の“斎藤”が目を開いた。
正確にカメラの方向――つまり、彼らの視線を捉える。
――ぴちゃん。
モニターのスピーカーから、水音が鳴った。
同時に室内の空気が一変する。
冷たい。
息が白くなった。
「主任、温度が下がってます!」
「遮断だ、すぐに電源を落とせ!」
久保がコンセントを引き抜く。
しかしモニターは消えない。
光が逆流しているように、画面が白く輝く。
その中に浮かぶ三人の影。
鏡の前に立つ“彼ら自身”。
そして、その背後――暗闇の奥から、もう一つの影がゆっくりと浮かび上がる。
「……もう一人いる。」
伊庭の声は震えながらも確かだった。
“それ”は輪郭がぼやけ、顔の中央が暗い穴のように抜け落ちている。
穴の中で、何かが瞬いた。
瞳だ。
「主任、こっちを見て――」
久保の言葉が途中で途切れる。
照明が一瞬にして消え、部屋が闇に沈んだ。
光源はモニターだけ。
その画面に、白い文字がにじむように浮かぶ。
FROM INSIDE
LOOK BEHIND YOU
息が止まる。
誰も動けない。
斎藤は、ゆっくりと後ろを振り返った。
そこには――鏡の中の“彼”が立っていた。
遅れて微笑み、声なき声で何かを告げる。
> 「……次は、君の番だ。」
――ぴちゃん。
音が、鼓膜の裏から響いた。




