第5話:軍の顧問
午後の研究棟は、いつもより人の気配が多かった。
廊下の奥から軍服の靴音が近づいてくる。
重く、規律的で、息を合わせるような足音だ。
「主任、今日、来るって言ってました?」
伊庭が不安げに問う。
斎藤は腕時計を見下ろした。
止まったままの針が、もう当たり前のように感じていた。
「黒瀬顧問だ。予定通りだ。」
「例の人ですか、軍の……」
「観察理論を“兵器利用”に転用したいらしい。」
「そんなこと……。」
伊庭が言葉を濁した瞬間、ドアがノックされた。
開くと、黒い軍服の男が立っていた。
黒瀬宗一郎。
階級章の輝きよりも、その瞳の鋭さが印象的だった。
「帝国大学・心理観察部門主任、斎藤博士ですね。」
低い声。
ひとつも無駄のない挨拶だった。
「顧問殿のご希望は承っております。」
「話が早い。」
黒瀬は部屋を見渡す。
鏡の前で足を止めた。
わずかに首を傾げる。
「これが、“反射儀式”の現物か。」
「儀式ではありません。観察実験です。」
「だが、結果は同じだろう。対象が“応じる”。」
その言葉に、伊庭が顔を上げた。
「……応じる?」
「君が媒介だろう?」
黒瀬は彼女を見た。
「鏡の前で祈る。対象が反応する。立派な媒介行動だ。」
「違います。私は――」
「彼女を刺激するな。」
斎藤が遮った。
黒瀬は肩をすくめ、笑う。
「刺激しなくても、もう十分だ。実験記録を見た。」
机の上の書類に手を伸ばし、指先で“ぴちゃん”と書かれた文字を叩く。
「この音。反射の副産物ではないな?」
「観察ノイズです。心理的干渉が――」
「心理的? 違うな。」
黒瀬は鏡へ歩み寄った。
光源の反射で、自分の姿がぼんやりと映る。
「……まるで生き物の眼球だ。」
「顧問、触れないでください。」
伊庭の声が鋭くなる。
黒瀬はその声を面白がるように笑った。
「怖いのか?」
「怖いんじゃありません。“怒らせる”んです。」
「何を?」
「“中”にいるものを。」
その瞬間、蛍光灯が一斉に明滅した。
黒瀬の足元で、わずかに水音が跳ねる。
――ぴちゃん。
「主任、今……!」
「静かに。」
斎藤は低く言った。
「顧問、後退を。」
黒瀬は笑みを崩さない。
「科学者というのは臆病だな。音ひとつで――」
再び――ぴちゃん。
今度は、黒瀬のすぐ背後から。
鏡の中で、彼の影が“遅れて”振り向いた。
「……何だ、今のは。」
「言ったでしょう。」
伊庭の声が震える。
「怒ってるんです。」
黒瀬は眉をひそめたまま、鏡に向き直る。
光の反射が彼の顔を照らし、その頬に細い筋が浮かび上がる。
水滴の跡――まるで誰かが内側から触れたように。
「顧問、退室を。」
斎藤の声が強く響く。
「退室? 馬鹿を言う。これは大発見だ!」
黒瀬は鏡を指差す。
「この“視線干渉”を制御できれば、情報戦の未来が変わる!」
「戦争に使うつもりか!」
「国家のためだろう!」
言葉がぶつかる。
鏡の奥で、波紋が広がった。
まるでその争いに呼応するように、反射の中の影が揺れる。
「……また、笑いました。」
伊庭の囁きが震える。
――ぴちゃん。
音が重なり、三人の会話をかき消した。
黒瀬が一歩下がる。
鏡の中の“黒瀬”が、遅れて微笑んだ。
「……今のを、再現できるか。」
顧問は興奮した声で問う。
斎藤は首を振った。
「これは実験ではない。警告だ。」
「警告? 誰からだ。」
――ぴちゃん。
鏡の表面が、泡立つように震えた。
黒瀬が息を呑む。
「……誰か、いるのか?」
「“いる”んじゃない。」
斎藤の声は低く落ちた。
「――“見ている”んだ。」
空気が凍り、誰も動けなかった。
その沈黙の中で、時計の針がふっと動き出した。
00:00:12。
そして、また止まった。




