第4話:夜の記録
午前二時。
研究室の灯りはすべて落とされ、久保だけが小型ランプを頼りに机へ向かっていた。
白紙の実験報告書。
その中央に、一行目を書く。
> 「第三夜観察記録。水音、持続。」
ペン先がわずかに震える。
インクが紙に吸い込まれる音まで聞こえるほど、静かな夜だった。
――ぴちゃん。
久保は顔を上げた。
今夜も、あの音。
耳の奥に、遠くから染み入るような水音が流れ込む。
廊下の奥、鏡のある実験室の方角からだった。
「……また、始まった。」
椅子を引く音が、やけに大きく響く。
カメラを掴み、静かに扉を開けた。
廊下の明かりは落とされている。
非常灯の薄い緑が、床に長い影を落としている。
久保の足音が、微かに反響した。
「主任が来る前に、記録を取っておこう……。」
独り言を呟きながら、ドアを押す。
実験室の空気は冷たかった。
鏡の前の台座に、誰かが立っているような錯覚――いや、立っていた。
自分自身、だった。
「……俺?」
鏡の中の“久保”が、少し遅れて首を傾げた。
目が合う。
ほんの一瞬のズレ。
反射じゃない。
明らかに、遅れて動いている。
「主任……主任、聞こえますか……?」
通信機のスイッチを入れるが、ノイズしか返ってこない。
代わりに――
――ぴちゃん。
水の音が、また響いた。
今度は耳元で。
「……誰だ。」
久保が後ずさる。
鏡の“自分”も後ずさる。
だが、足音の数が合わない。
二歩、三歩。
鏡の中からも、別の足音が混ざる。
恐る恐るカメラを向けた。
レンズ越しの鏡面に、黒い影が滲む。
自分と同じ位置に立っていた“影”が、カメラの光に反応して首を傾げた。
目が、ない。
顔の中央が黒い穴のように歪んでいる。
「……やめろ……。」
久保の声が震える。
しかし“影”はゆっくりと口を開けた。
音はない。
ただ、形だけが見える。
> 「見てる。」
その瞬間、カメラのファインダーが真っ暗になった。
バッテリーの警告音も鳴らない。
再び――ぴちゃん。
久保の視界がぐらりと揺れた。
床が湿っている。
足元に、波紋が広がっていく。
光が消え、冷気だけが残った。
「……中、に……?」
意識が薄れていく。
視界の端に、鏡の中の“自分”が、穏やかに微笑んだのが見えた。
その笑みが――安堵に見えた。
朝。
斎藤が研究室に入ると、床は乾いていた。
だが鏡の前に、カメラだけが転がっていた。
「久保? ……どこへ行った。」
電源を入れると、映像が再生される。
途中まで正常。
その後、画面が一瞬だけノイズに変わる。
そして――
鏡の中の久保が、こちらに微笑んでいた。
画面下には、自動挿入された文字。
FROM INSIDE
00:00:12
斎藤はモニターから目を離さず、かすかに呟いた。
「……記録は、続いている。」
部屋の隅で、また音がした。
――ぴちゃん。




