第3話:ぴちゃん
「主任、今日は配管も止めました。なのに、まだ……。」
久保の声が震える。
深夜の実験室に、またあの音が響いた。
――ぴちゃん。
静寂に吸い込まれるような、水の音。
排水も、水槽もない。
なのに、床に丸い輪がひとつ、光を反射していた。
「錯覚じゃない。昨日より、近くなってます。」
斎藤は無言で観測端末を操作する。
スピーカーを通して増幅された室内音が、低いノイズと共に流れた。
> 「……ぴちゃん。」
「主任、拾ってます。マイク、完全に拾ってます。」
「音圧、周波数、距離、全部記録しろ。」
「……音の距離ですか?」
「ええ。音が近づいているなら、発生源があるはずだ。」
久保は顔を歪めながら測定器を覗き込む。
「主任……この波形、変です。」
「どこがだ。」
「音が、反射してないんです。壁にも、床にも。どこから来てるか分からない。」
「反射がない? つまり――」
「“中”から聞こえてる。」
その瞬間、伊庭が扉の隙間から入ってきた。
淡いランプの光に照らされ、髪の先が揺れる。
「もうやめてください。鏡の音を録るなんて。」
「観察とは、測定だ。」
斎藤は眼鏡の奥で瞳を細めた。
「測定は再現を導く。」
「祈りもそうです。」
伊庭の声は低かった。
「祈りも、何度も繰り返すうちに、神を呼ぶ。」
「科学と呪術を同列に語るな。」
「でも主任、どちらも“見えないもの”を呼ぼうとするでしょう?」
久保が口を挟む。
「……つまり、呼んじゃった可能性があるってことですか。」
「久保!」
斎藤の声が鋭く跳ねた。
「根拠のない恐怖は現象を歪める。」
「でも主任、現象が“恐怖”そのものなら?」
その問いに、空気が凍った。
蛍光灯が一瞬、明滅する。
鏡の面に白い光が縦に走り、表面がわずかに波打った。
「主任、見てください。波紋です。水じゃないのに……!」
「録画を回せ。照度を下げろ、反射率が飽和する。」
斎藤が操作盤を叩く。
モニターに映る鏡面は、確かに揺れていた。
その奥で、ぼやけた輪郭が浮かんでは消える。
「人影……?」
久保がカメラを構えた。
ピントを合わせた瞬間、スピーカーから音が爆ぜた。
――ぴちゃん。
今度は明らかに“近い”。
床の波紋が、斎藤の足元まで届いた。
湿り気のない実験室に、なぜか靴底が冷たく感じる。
「主任、後ろ……!」
伊庭の声。
斎藤はゆっくり振り返った。
だがそこには誰もいない。
ただ、鏡の反射が壁に映る。
「錯覚だ。」
「主任……今、反射の中に、“もう一人”いました。」
「言葉を慎め。」
「ほんとです。主任の肩越しに立ってました。」
久保がカメラのファインダーを覗く。
息を飲み、呟いた。
「……主任、映ってます。後ろに。」
斎藤が歩み寄る。
モニターに映る映像――自分の背後に、確かに“黒い影”が立っていた。
輪郭はぼやけ、頭部がゆっくりと傾く。
「……顔が、見えない。」
斎藤はつぶやき、手を伸ばした。
モニターのガラス越しに指先が触れる。
――ぴちゃん。
耳の奥で水音が響き、画面にノイズが走った。
映像が一瞬、反転する。
カメラが床に落ち、久保の悲鳴が上がった。
「主任! 画面の中の“影”、動いてます! こっちを見てる!」
「記録は続けろ!」
斎藤の声が揺れる。
鏡の奥に、ゆっくりと白い形が浮かび上がった。
目。
昨日と同じ、“あの目”だ。
無数の瞳が、泡のように水面から浮かび、外を覗いている。
「主任、止めて!」
伊庭が鏡を覆おうと手を伸ばす。
「触るな!」
「でも――!」
彼女の指が鏡面に触れた瞬間、光が弾けた。
鏡の中の瞳たちが一斉に瞬きし、静寂が訪れる。
時間が止まったような一瞬。
……ぴちゃん。
耳ではなく、心臓の奥で鳴ったような気がした。
斎藤は息を詰め、鏡を見据えた。
もう何も映っていない。
ただ、青白い残光がかすかに揺れている。
「主任……今の、録れてますか?」
久保の問いに、斎藤はゆっくりとうなずいた。
端末の画面に、ログがひとつ自動追加されている。
FROM INSIDE
00:00:12
斎藤はそれを見つめながら、低く呟いた。
「――音は、呼吸だ。まだ、“中”が生きている。」




