第2話:光学実験
「主任、夜明けですよ。もうやめましょう。」
久保の声は乾いていた。
時計の針はいまだに“00:00:12”のまま止まっている。
朝の光がブラインドの隙間から差し込み、鏡の表面に淡く筋を描いていた。
「記録を続ける。現象が一過性なら、日の光で再現できないはずだ。」
斎藤は頑なに鏡へ近づく。
金属の枠に冷たい手を置いた瞬間、指先に湿り気が伝わる。
夜の実験以降、鏡はうっすらと曇ったままだ。
「主任、表面、濡れてます。拭きますか?」
「いや、触るな。現象の痕跡だ。」
久保はため息を吐き、カメラのフィルムを入れ替える。
彼の手はわずかに震えていた。
「伊庭君は?」
「……少し休ませてます。熱を出して。」
「原因は?」
「瞳孔の異常拡張です。医務室が『強光への過敏反応』って。」
斎藤は短く唸り、鏡面を覗き込んだ。
反射した自分の顔が、薄い膜の向こうで遅れて笑った気がする。
「主任。」
「なんだ。」
「昨日のあの“ぴちゃん”って音、結局……何の音だと思います?」
「錯聴だ。配管の音でも、水漏れでもない。」
「じゃあ……なんで聞こえたんです?」
「――観測者が複数いれば、聴覚情報にも干渉が起こる。」
「干渉、ですか。」
久保は曖昧に笑い、鏡を指で指した。
「でも主任、あの目、見ましたよね。」
斎藤は答えなかった。
記録用端末のログを確認する。
ノイズ混じりの文字列がひとつ。
FROM INSIDE (00:00:12)
「……昨日の時間か。」
入力していない。
自動生成の形跡もない。
それでも、確かに記録は残っていた。
ガラリと扉が開く音。
伊庭が白衣を羽織ったまま、ゆっくり入ってきた。
「主任、もう実験はやめてください。」
「どうした、体調は。」
「治りました。でも……。」
彼女は鏡を見ないように視線を落とした。
「夢を見たんです。鏡の中に、わたしたちが立ってる夢。でも、鏡の向こうの“わたしたち”が、先に笑った。」
斎藤の手が止まる。
久保が息を呑む。
「夢は記憶の整理だ。」
斎藤は冷たく言い放つ。
「偶然だ。」
「偶然じゃありません。あの鏡、まだ動いてます。」
伊庭は鏡台の下を指差した。
そこに、水滴がひとつ。
乾いた床に、音もなく落ちる。
――ぴちゃん。
斎藤は即座にカメラを構えた。
「照度三。強光照射。」
「主任! 強すぎ――」
光が鏡に当たる。
白い閃光が弾けた。
瞬間、研究室全体の蛍光灯が一斉に明滅する。
バチッ。
視界が白に包まれ、耳の奥で高音が鳴った。
光が収まると、鏡面に何かが残っていた。
黒い影。
肩から上の輪郭。
しかし反射しているはずの人物は、斎藤ではなかった。
「……主任?」
久保が小さく呟く。
「……誰だ、これは。」
鏡の中の男が、こちらとまったく同じ動作で顔を傾けた。
だが、その口だけがわずかに遅れて動く。
音はない。
それでも確かに、形が読めた。
> 「見ている。」
久保がよろめく。
「主任、聞こえましたか? 今、声が――」
「録音を回せ!」
斎藤は叫んだ。
機材が唸り、ランプが点灯する。
だがすぐに、異音が混じった。
ノイズの海の中で、声が重なる。
> 「見ている……見ている……」
伊庭が耳を塞いだ。
「止めて、主任、これ……違う!」
「観測対象の反応だ。止めるな!」
「違います、“観測者”が見られてる!」
斎藤はふと我に返り、電源を切る。
音が途絶える。
鏡の中の影は、もういなかった。
しばし、三人の呼吸だけが部屋を満たした。
久保が低く言う。
「主任……この実験、まだ続けるんですか。」
「――当然だ。」
斎藤は鏡に背を向け、ノートを開く。
ペンを走らせながら、呟くように言った。
「視ることが恐怖になるなら、それこそ解明すべきだ。」
その背後で、再び小さな音がした。
――ぴちゃん。
机の上、ノートの余白に、黒いインクがじわりと滲む。
誰も触れていないのに、文字が浮かび上がっていく。
00:00:12 FROM INSIDE
伊庭が凍りついた声で囁く。
「主任……それ、書いてませんよね。」
斎藤は息を呑み、ゆっくりと鏡の方へ振り返った。
鏡面には、さっき消えたはずの影が戻っていた。
――そして、笑っていた。




