第十九話:ノーザン男爵家別邸 〜エリスさん〜
僕は緊急の用件だと職場に告げ、数年ぶりに仕事を早退した。隣を歩くのは、肩まで髪を切り、覚悟を纏ったエリス様。
向かった先は、王都の片隅にあるノーザン男爵家の別邸だ。
「……驚かないでくださいね。別邸とは名ばかりの、裕福な庶民か商家の家と変わらない場所ですから」
案内した先は、上位貴族の豪華絢爛な屋敷とは比べ物にならないほど小さく、実用的な作りの住宅だった。
扉を開けると、長年ノーザン家に仕えている世話係の「ばあや」が顔を出した。
「ばあや、急で悪いんだけど、今日からこの方にしばらくここに滞在してもらうことになった。訳あって行く当てがないんだ。世話を頼めるかな」
「おや、まあ……。シオン様が、こんなに美しいお嬢様を連れてくるなんて」
ばあやは最初こそ腰を抜かさんばかりに驚いていたが、すぐに状況を察したのか「お任せください」と快諾してくれた。ただ、僕を見る目が妙にニヤニヤとしていて、非常に居心地が悪い。エリス様の正体については、混乱を避けるため「訳ありのお嬢様」とだけ伝えておいた。
二階の空き部屋へと案内し、リナ姉さんが置いていった服が詰まったクローゼットを開ける。
「姉さんの服ですが、これを着るのは嫌ですか? 機能的な部屋着もありますが……」
そこには数着のドレスの他に、学生時代に多くの男たちを魅了したであろう、庶民的ながらもお洒落で可愛らしいお出掛け着が並んでいた。
「いいえ、嫌だなんて。リナ様のお召し物を貸していただけるなんて、光栄ですわ」
エリス様はリナの服を愛おしそうに見つめていたが、ふと真剣な表情で僕を振り返った。
「シオン様……お願いがありますの。私はもう、公爵令嬢という立場を捨てました。ですから、どうか私への『様』付けはやめていただけませんか?」
「……ええと。では、エリス、さん?」
「はい。……ふふ、ありがとうございます、シオンさん」
気恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに微笑む彼女、エリスさん。
かつての「エリス・ヴァレンシュタイン公爵令嬢」という鎧を脱ぎ捨てた彼女は、リナ姉さんの可愛らしい服に包まれ、一人の女性として僕の前に立っていた。
質素な別邸に、二人だけの穏やかな夜が訪れる。
だが、この静寂は、明日から始まる「国家を揺るがす実務」の前の、最後の休息であることを、僕たちは知っていた。




