40話
眞が意識を失っている間、事務所に戻った詩音は、自身の記憶と祖父の話を頼りに、バイクでとある場所に向かっていた。
今の詩音には、復讐か諦めるかの選択肢しか無い。しかし、いずれかを選んだところで行き着く結末は同じ。
その前に目に焼き付けておきたい場所があった。
数時間を掛けて目的地へ着いた。
そこはとある街の郊外にある、閑静な住宅街。その中でも特に静かで人気の無い場所に、一件の建物があった。
20年程前。持ち主が亡くなり、家族も失踪したと噂が1人歩きし、買い手のつかない一軒家。
―――詩音の生家だ。
「‥‥‥‥‥‥」
バイクから降りて、その家に近寄る。既に辺りは暗くなり始めていた。
「‥‥‥‥‥‥」
詩音はその住宅の敷地に無断で入る。
長い間、人が住んでおらず、外壁も庭も荒れ放題。窓からは荒れた室内が見えていた。
記憶の底に沈んでいた思い出が蘇る。
「‥‥‥‥‥‥」
母の料理を食べた記憶。
仕事から帰ってきた父に、頭を撫でてもらった記憶。
父と母と一緒に、庭で遊んだ記憶。
そんな記憶が詩音の脳裏に浮かび上がる。
忘れていただけで、詩音の中にはいつも存在していた。
―――幸せだった頃の思い出。
「‥‥‥‥‥‥あ」
目に映る場所全てに、幼い自分の姿を幻視した。
地面に崩れ落ちる。
幸せな日々は確かに存在していた。
‥‥‥詩音の手から、全て溢れ落ちてしまったが。
改めて、その事実を突きつけられた詩音には、頬を伝うものを止めることが出来ない。
「‥‥‥‥‥‥どうして、置いていくの‥‥‥」
顔を覆う。
地面にうずくまるように身を縮めることしか出来ない。
「私も連れて行って欲しかったのに‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥どうして、私だけこんな‥‥‥」
「私には、もう、何も無いのに‥‥‥」
両親も、自分の未来も、信じていた男も。
全て失ってしまった。
‥‥‥残ったものは、復讐だけ。
しかし‥‥‥
「‥‥‥‥‥‥もう、時間が‥‥‥」
‥‥‥杉沢から聞いていた余命。
詩音は、生きていられる時間がもっと少ないことを理解していた。
「奇跡でも起きないと‥‥‥何も出来ないよ‥‥‥」
「なら、起こしましょう‥‥‥詩音さん」
詩音の心が折れてしまう直前。
その心の支えとなる、共犯者の姿があった。
「‥‥‥‥‥‥まこと?」
「ええ、詩音さん。まだ、終わっていません。‥‥‥‥‥‥いや、終わらせません」
詩音は少しの間、呆然としていたが、気を取り戻す。
「‥‥‥‥‥‥どこまで知った?」
「全部です。詩音さんの病気と‥‥‥余命が少ないこと。そして、俺が天城悠生の息子である可能性が高いことです」
「‥‥‥‥‥‥そうか」
眞に向き直るように、その場で座り直す。既に涙は止まっていた。
「詩音さん‥‥‥」
「近寄るなっ!!」
「‥‥‥っ」
近寄ろうとする眞に向けてナイフを突きつける。詩音の瞳には敵に向けていた昏い光が宿っている。
「‥‥‥近づいたら、殺す」
「‥‥‥‥‥‥詩音さんには、出来ませんよ」
「見縊るなっ!‥‥‥私はっ‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥まあ、そうしてもらっても、構いませんが」
「‥‥‥っ?!」
そのままナイフが突き刺さっても構わないといった動きで、詩音の身体を抱きしめる。
「馬鹿っ‥‥‥血が‥‥‥」
眞の行動に驚き、咄嗟にナイフを引くが、動作が一瞬遅れてしまった。そのせいで、眞の脇腹を浅く切りつけてしまう。
「‥‥‥詩音さんの復讐が終わったら、殺してもらっても構いませんよ。詩音さんが満足するのであれば、本望です」
「‥‥‥でも、そうしない事は分かりますよ‥‥‥お祖父さんとの約束を、忘れていないようですから」
「‥‥‥なんで、それを?」
「杉沢先生から、詩音さんへ伝言があります‥‥‥『宗次郎の奴は、人を殺したことを死ぬまで悔やんでいた。詩音には、そんな思いはしてほしくない。普通の女として、幸せになってほしい。と、死ぬ間際に言っていた』‥‥‥そうです‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥そう、なの?」
「ええ、詩音さんのお祖父さん‥‥‥水瀬宗次郎さんの最期を看取った杉沢先生が、そのように話していました」
◇
『なあ、杉沢の婆』
『なんだ、水瀬の爺』
ベッドで横たわる老人‥‥‥水瀬宗次郎。
八十年分の年輪が刻まれた顔。元はがっしりとした体型であったようだが、今ではすっかり痩せ衰えてしまっている。
数年前から体調を崩していたが、気が付いた時には既に手遅れであった。
同居している孫娘には誤魔化し続けていたが、昨年頃からついに隠し通せなくなっていた。
『俺はもうすぐ死ぬ、だから最期に言い残したいことがある』
『‥‥‥聞いてやる』
死期を悟った宗次郎は遺言を杉沢に託す。
『孫に‥‥‥詩音に、伝えてくれ。憎い相手がいても、決して殺すな。‥‥‥俺のように、殺してしまった相手に‥‥‥後悔に‥‥‥囚われること無く‥‥‥生きて欲しい。‥‥‥まだ、幸せになれるはずだから、と』
‥‥‥宗次郎は過去に人を殺していた。
自己防衛‥‥‥仕事上、仕方が無かったとはいえ、とても後味の悪いものであった。だが、それで終わりでは無かった。
殺した相手に家族がいたらしく、その家族の1人が、死ぬまで宗次郎を探していたと‥‥‥風の噂で聞いた事があった。
その話を聞いた日から、宗次郎は来る筈の無い復讐者に怯えるようになった。
来るはずがない、ありえない‥‥‥と思いつつも、亡霊のようにいつまでもつきまとう。
‥‥‥宗次郎は、生きながらにして地獄にいる心地にあった。
それが、詩音を引き取るまで、ずっと続いていたのだ。
『‥‥‥こっちも年寄りだからねぇ、期待はするなよ?』
『‥‥‥ふん、お前が忘れる訳無いだろう‥‥‥』
『自分で言えばいいだろう?』
『言ったさ‥‥‥だが、本心は伝えられていない‥‥‥琴音を助けることが出来なかった俺には‥‥‥そんな資格はない』
詩音にも事あるごとに伝えていたことがあった。
しかし、その本意を伝えることは無かった。
‥‥‥そんな資格が無いと、宗次郎は考えていたからだ。
『‥‥‥馬鹿だねぇ、あんた。言いたいことも言えないなんて。無愛想な爺だと思われているよ、きっと』
『‥‥‥はは、ははっ‥‥‥なんとでも‥‥‥言え』
『‥‥‥‥‥‥じゃあな‥‥‥先生‥‥‥世話に‥‥‥なった‥‥‥‥‥‥‥』
『ああ、達者でな‥‥‥』
杉沢と水瀬宗次郎との最期の遣り取り。
その直後、部屋の中に詩音が入ってきた。
『婆っ!爺さんは!』
『死んだよぉ‥‥‥今な』
『‥‥‥‥‥‥くそっ‥‥‥最期まで、無愛想な‥‥‥』
悪態をつきながらも、その顔には隠しきれない悲しみがあった。
宗次郎の遺体に近づき、詩音はその手を両手で包み込むように握る。
言葉と態度とは裏腹に、彼の死を悼む優しい所作。
『‥‥‥なあ、詩音。お前はこれからそうするんだい?』
『‥‥‥分からない‥‥‥ただ、父さんが何故死んだのか‥‥‥それを調べる事が‥‥‥私の‥‥‥』
『詩音‥‥‥』
『それが、分かれば‥‥‥私は、何かが出来ると思うんだよ‥‥‥』
‥‥‥この時の詩音は途方に暮れていた。
今迄、先を歩いてくれていた、唯一の肉親がいなくなってしまった。
これから、どうやって生きていけば良いのか分からない。
詩音は自分の意思で、生きる目的を見出すことが出来なかった。
このままでは、詩音は自分の人生に意味を見いだせないまま‥‥‥人生を終える。
そんな予感がした杉沢は、宗次郎の遺言を伝える事が出来なかった。
―――幸せに生きろ。
今の詩音には、とても難しいことであったから。
『‥‥‥‥‥‥そうかい、好きにするといいさ』
『‥‥‥ああ、そうするよ』
だからこそ、理由や目的は関係なく、詩音の生きる目的となるものであれば、それを止める理由は無かった。
‥‥‥正解は無い選択だ。
その結果。詩音は一番過酷で、得るものの無い道を選んでしまった。
◇
「‥‥‥‥‥‥」
「詩音さんのお祖父さんが、どう思って言い残したのかは‥‥‥俺には分かりません。もしかしたら、詩音さんのお祖父さんの人生を変えてしまう程の出来事があったのかもしれません‥‥‥それを分かっていたからこそ、詩音さんは人を殺すことを選ばなかったのではないですか?」
「‥‥‥それは」
「だからこそ、命を奪うこと無く、社会的に殺す事に拘っていた。‥‥‥違いますか?」
詩音は思い出す。
『人を殺せば、復讐の輪廻に囚われる。殺しに正義はない。あるのはただの自己満足だ』
祖父が語っていた言葉だ。
その言葉を語る度に、とても悲しそうな表情をしていた。
‥‥‥祖父は人を殺した事があるのだろう。
10を過ぎる頃には何となく気が付いていた。
その結末を表す、祖父の姿と言葉が、詩音の心に焼き付いていたのだ。
「‥‥‥‥‥‥そう、だとしたら」
「‥‥‥私は、どうしたら良いんだ?」
「‥‥‥私には、もう時間が無い‥‥‥生きていられる時間は、もっと少ないんだよ‥‥‥それなのに‥‥‥」
日に日に症状の感覚が短くなっている。
眞が寝ている間にも、呼吸が止まりそうになった事もある。咳も増えていた。
「信じていた眞を‥‥‥信じることが‥‥‥出来ない‥‥‥」
「私には分からない‥‥‥天城悠生は敵だ‥‥‥眞も‥‥‥その中に、入る」
「眞が、天城悠生の息子‥‥‥そう考えるだけでも嫌悪感がある‥‥‥吐気もする‥‥‥憎い‥‥‥とも」
「でも、諦め掛けていた私に希望を見せてくれた‥‥‥何度もきっかけを作ってくれた‥‥‥‥‥‥命まで、助けてくれた」
「そんな、恩人を‥‥‥憎んでしまう自分が‥‥‥‥‥‥嫌なんだ」
眞は憎悪の対象に入る。
しかし、詩音にとっては、手放したくない人間でもあった。
「詩音さん‥‥‥」
「だから、私は‥‥‥1人で、天城悠生を‥‥‥殺す」
「どうせ先の無い身だ‥‥‥死んだところで‥‥‥構わないさ」
眞を憎むことなく、決着を着ける。
自分の生き死について関係なく。
それが詩音の選んだ答え。
「詩音さん」
「‥‥‥痛い」
詩音の身体を強く抱きしめる。
折れそうだ、と思っていた身体を通じて。
その選択は間違いだと、戒める。
「貴女がそう考えるのなら‥‥‥止めません。‥‥‥ですがその前に、詩音さんの敵である俺を‥‥‥殺してからにして下さい」
「‥‥‥‥‥‥出来る訳が‥‥‥」
「いえ、出来ますよ‥‥‥詩音さん。そのナイフを突き出すだけで、俺は死にます」
詩音のナイフを自らの心臓に突きつける。肋骨の間に差し込めるように、角度を調整して。
押し込むだけで、確実に鼓動を止める事が出来るように。
‥‥‥これは詩音に教わった事だ。使い道はないかと思っていたが、ようやく役に立ちそうであった。
「‥‥‥本気か?」
「ええ、本気です。詩音さんを、ここまで追い詰めさせてしまった責任は、取ります」
「‥‥‥‥‥‥」
「出来ませんか?」
「‥‥‥‥‥‥出来ない」
手で固定するナイフの柄。そこに詩音の力は感じない。
殺す気が無いと、分かってしまう。
「では、詩音さん。貴女の目の前で、俺は自分を刺しますよ」
「何を‥‥‥馬鹿っ?!止めろ?!」
じわじわ刺すのは嫌なので、眞は勢いをつけて心臓を一突きしようと腕を伸ばすが、その頂点で詩音に止められた。全身を使った必死の制止。
手と腕が詩音に抱きしめられており、その部分の柔らかさが直に伝わっている。詩音に余裕は無いが、眞は『ああ、こんなに柔らかいのか』と呑気に考える余裕があった。
「‥‥‥止めましたね‥‥‥2回も死ぬつもりだった俺を」
「‥‥‥‥‥‥ああ、止めたさ‥‥‥」
「何故止めたんですか?」
「死なせたく無かったからだ!!」
両親を死に追いやった仇の息子だと分かっていても‥‥‥詩音には、眞を切り捨てることが出来なかった。
「ありがとうございます‥‥‥でも、俺を生かした責任は、取ってもらいます」
「‥‥‥何だ?」
眞は詩音に伝えたかった言葉を口にする。
「天城悠生を‥‥‥2人で潰すんです。完膚なきまでに。徹底的に」
「社会的に、抹殺しましょう」
仇の息子が、仇を討とうと提案する。
あべこべな事ではあるが、眞は本気だ。
「‥‥‥‥‥‥それは」
「前にも言いましたよね‥‥‥俺にとっても、母親の仇なんですよ」
「‥‥‥そう、だったな」
眞は母親を捨てた男を憎んでいた。
それは、恐らく天城悠生であろう。
だからこそ‥‥‥詩音の敵は、眞の敵でもある。
詩音は眞に希望を見出したと考えてはいるが、それは眞にとっても同じ。
詩音がいたからこそ、復讐の火種を消さずに、ここまで来る事ができた。
「でも、私に出来るのだろうか‥‥‥」
「出来ます‥‥‥俺を殺さなかった、詩音さんなら」
「どうやって‥‥‥?」
「安西の捏造データ、梶原さんの音声データ、そして‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥まさか」
「あの時の話しが本当なら‥‥‥可能性は、あります」
眞は1つの考えを詩音に伝える。
予想が当たっていれば、天城悠生の命脈を断つ武器となる筈。
「‥‥‥‥‥‥裏付けは」
「天城製薬に取り入っている人物が1人います‥‥‥」
「手段は‥‥‥」
「偽装工作の専門家と、狙撃手がいるじゃあないですか」
「‥‥‥‥‥‥共に、立ち向かってくれる奴は」
「俺がいます」
自身を持って断言する。
だが、手を下すのは眞ではない。
‥‥‥もっと相応しい人間がいる。
「そして‥‥‥貴女が」
「黒羽詩音として報いを与え、天城悠生の人生に幕を引く」
詩音が、天城悠生を地獄に落とす。
それが、眞の願いであった。
「‥‥‥‥‥‥ふふっ」
「詩音さん‥‥‥?」
「全く‥‥。大それた言い回しだな‥‥‥」
「それで良いんですよ‥‥‥詩音さんの復讐なんですから‥‥‥最後くらい、派手にいきましょうよ」
「ああ、そうだな。同感だ‥‥‥そっちのほうが、清々するな」
眞の行動と話の中で、眞の覚悟を見た詩音は、憑き物が落ちたかのような穏やかな表情を浮かべる。いつもの気怠げな様子は、ない。
「‥‥‥最期まで付き合ってくれるか?」
「ええ、最期まで、傍にいますよ」
互いに視線を交わす。
それだけで信頼出来る相手だと、真に理解することが出来た。
「そうか‥‥‥最期に、眞の様な人間に出会うことが出来て‥‥‥良かった」
「全てが終わったら、また言って下さい」
「ああ、そうするよ‥‥‥なあ、煙草‥‥‥あるか?」
「ええ、ありますよ」
「一本寄越せ」
「はい」
眞から鳩のデザインの煙草を一本受け取る。
「眞には、これをやる」
羽のついた鉄兜の煙草を一本渡す。
「は、はあ‥‥‥」
詩音は、おもむろに眞から受け取った煙草に火を付ける。
そして、口に咥えたまま、煙草の火種を眞に差し出す。
「‥‥‥ん」
「えっ?」
差し出された煙草と、間近にある端整な顔に戸惑う。
「‥‥‥火、いるだろ?」
「‥‥‥‥‥‥はい」
眞は詩音の意図を察する。
前回は葉巻であったが、今回は紙巻き。
眞も詩音から受け取った煙草を咥え、火を付ける。
‥‥‥詩音の、煙草で。
黒に白のコントラストの髪。その間からブラウンの瞳が覗く‥‥‥この一時を堪能するかのように、穏やかな光が見える。
いつまでも眺めていたいと思える顔には、僅かに朱が差しており、吐息とともに、詩音の香りを感じる。
名残惜しい気持ちを抑えつつ、近づけた顔を離し、お互いの煙草の味を確かめる。
(‥‥‥相変わらず‥‥‥きつい煙草だ‥‥…)
眞の鼻と口に、黒煙草特有の発酵臭と魚の出汁の様な風味が広がる。
(‥‥‥これが、良いんだよな)
男臭く、力強い…‥‥労働者の煙草。
一仕事前には、相応しい煙草だ。
「‥‥‥‥‥‥ふぅ‥‥‥ごほっ、ごほっ」
詩音は、煙草の煙にやられて咳き込んでしまう。
不慣れからではなく、単純に肺が煙を受け付けないのだ。
「詩音さん、大丈夫ですか?!」
「ああ、肺がな‥‥‥だが‥‥‥」
「今迄で一番‥‥‥美味い煙草だ」
飾り気の無い、自然な笑顔で眞に笑いかける。
「‥‥‥これからもっと美味い煙草が吸えますよ」
「そうかもな」
「よし‥‥‥ここから、私の人生を‥‥‥始めるとするか」
煙草を吸い切り、携帯灰皿にねじ込んだ後の詩音は、死に近い病人とは思えないほど晴々とした表情を浮かべていた。




