怪盗クックロビンからの予告状 ⑮
瞬間、何が起こったのかわからなかった。
突如吹き付けた風に体が攫われたたのだと理解したときには、既に体が浮き上がっていた。
浮遊感というには勢いの強いそれに、ぐるりと視界が回る。
回転しているせいですぐに空を映すばかりになったけど、吹き飛ばす力の割に幸い高さは無いらしく割と近くに屋上の床が見えた。
着地の時に擦り傷くらいは負うかもしれないけど大した怪我にはならなさそうだ。
あぁでも、この速さで頭から落ちたらまずいかな、なんて他人事のように間延びした思考に、鋭い声が割入った。
モネ、と僕を呼ぶ、桜庭さんの声。
反射的に体を捻った向こう側に、伸ばされる手。
その指先が形を失って崩れていく。
あぁまた、こんなところで不用意に。
駄目じゃないですかと開こうとした口に冷たい風が吹き込んで、ぐらりと体が傾いだ。
落ちるなら受け身をと下を探す視界に、映る緑。
人工的な塗料の色とは違う、遥か彼方に生い茂る自然の葉の色。
それが何を意味しているのか、脳が理解を拒絶する。
だけどどれだけ僕が認識を拒んだところで、事実は覆らない。
重力は絶対的に、物質を下へと引きずり落とす。
一拍の空白。
衝撃も疑問も何も浮かばない。
その隙間を埋めるように、怒涛に衝動が押し寄せる。
まだ、まだ。
チェスのルール、覚えてない。合わせてない曲がたくさんある。まだ何も、返せてない。
ここで終わりたくない!
それだけの思いで、宛ても何もなくただ腕を伸ばす。
自分がどっちを向いているのかさえ分からない、ただの悪あがき。
遠ざかる空の分、地面が近づいている。
過ぎる風圧に涙があふれて、痛みに瞼が閉じた。
零れたはずの雫が頬を伝わず額を滑る。
死にたくない。
その思いを吹き飛ばすように、突風が吹き上げる。
「しっかり腕伸ばしなさい!」
風に逆らうように降り注いだ声に、はっと目を開いた。
がくん、と肩に走る衝撃。ぎりぎりと握り締められた手首が痛い。
宙づりに繋ぎ止められた僕の傍を、何かが落ちていく。
太陽を背負って僕を見下ろす、苦し気に歪んだ黄金色の瞳。
諦めんじゃないわよ、とその口が動く。かすかなテノールの名残。
落ちて行ったものの正体に思い当たったところで、僕の体に大量の水が襲い掛かった。
「あ、せったー……無事でよかったほんと……。」
「僕も、これは駄目だと思いました。」
「冷静に感想述べてんじゃねぇよ。」
ぐしゃりと髪をかきまぜて、桜庭さんが立ち上がる。
向かう先は屋上の端。
服を払っていたクックロビンが桜庭さんに気付いて顔を上げた。
僕の代わりに落ちたものとは別の仮面の奥で、その瞳が微笑んでいるように見える。
「クックロビン。」
「ふふ、そう怖い顔をしなくても。礼なら不要だよ?」
「そういうわけにはいかない。……といっても俺にできることなんて何もないけど……。」
首を振って、桜庭さんがびしりと姿勢を正した。
まっすぐに伸びた背筋が、お手本のような四十五度を形作る。
凛とした、それでいて籠る思いの強さにかすか震える声。
「俺の助手を、助けてくれてありがとう。」
「……君が摩訶不思議な水を操っていなければ、いずれ結果は同じことだった。救ったのは私ではなく君だよ。」
「俺だって万能じゃない。間に合わなかった可能性だってあった。……なにより。」
僕からは、桜庭さんの背中しか見えない。
だけど、持ち上げられたその顔が、心からの安堵と感謝に満ちていることは、声を聴けばすぐにわかる。
「誰より先に、あいつを助けるために動いてくれた。……ありがとうくらい、受け取ってくれよ。」
「……わかったよ。」
くすりとクックロビンの口元がほころんだ。
君の言葉は心地が良いね、と笑みをのせた声が風に踊る。
その二人に、重い足音が歩み寄った。
揃って顔を向ける正面に、列をなす警察官。
潮時かな、とクックロビンが肩をすくめる。
「……俺となら、ここから逃げられるけど。」
「地上までのウォータースライダーかい? かつてないスリルが味わえそうだね。」
「これくらいの高さなら何度かやってる。安全だって約束するぜ?」
「……ありがたい申し出だけど、遠慮しておくよ。君の帰る場所がなくなるのは本意じゃない。」
「それなら、心配いらない。……五秒後、どうだ。」
「君、そんな風に」
ずらりと並ぶ制服を睨むように見据えて、クックロビンの肩を抱いた桜庭さんが足を引く。
その先から水に変わっていく体に、柊野君が立ち上がった。
逃げますよ、と僕を助け起こして歩き出す。
そんな僕たちの動きを咎めるように、だん、と靴底が地面を叩く音。
反射的に振り返った先で、整列した警官が揃って右手をこめかみに押し当てていた。
一糸乱れぬ、見事なまでの敬礼。
先頭に立った蓮月さんと椋折さんの口が開く。
「人名救助、ならびにその勇気ある行動に、感謝します!」
繰り返すように、感謝します! と全員分の合唱が響き渡る。
ぽかんとそれを見つめて、やがてクックロビンの口から気の抜けた笑い声が漏れた。
警察も捨てたもんじゃないなぁ、とその唇が動く。
あぁ、なんて。
「クックロビンっ!」
「椿木さんっ、」
叫んだ声が自分のものだと、地を踏む足が走り出しているのだと、気付くより早く。
こちらを向いて驚きを浮かべるクックロビンに、勢いが殺しきれずに飛び込むように。
「うわっ!?」
「クックロビンっ、僕っ」
助けてもらったこと、忘れないから。
見えた君の素顔、君の声。絶対誰にも言わないから。
だから、ねぇ。クックロビン。
「サインくれませんか……!」
「……どこか頭でもぶつけたのかい?」




