71話 開戦
空気が震え、大地が悲鳴をあげている。数十万の魔物の進軍は、まだ姿は見えなくとも城砦群に伝わってきた。
「見えるか?」
「いいえ、斥候の報告では間も無くだそうですが」
双眼鏡を覗き込むギュルヴィに向かってアキが言った。
「緊張してるのか?アキ」
「リラックスして、貴方は大丈夫よ」
双子が宥めるように言った。アキは気を取り直した。作戦は確かに簡潔だ。雪崩れ込む敵軍を砦でせき止める。強力な個体や上位種が現れた場合、『名前付き』がそれを狩る。本来は部隊と部隊、砦と城の連携で複雑のはずだが、アキが理解しているのは自分達『原初の火』の動きくらいだった。
俺は落ち着いてるさ、スノリ、大丈夫か?」
「え?あっはい!大丈夫だと…思います」
スノリは急に話しかけられて驚いていた。苦い顔で笑ってみせようとするが、真っ青でガクガクと震えている。アキはできるだけ優しく微笑んだ。
「見えてきましたよ」
遥か遠くに砂埃が舞っている。小さな点は瞬く間に広がり、平原は黒く蠢く魔物達に埋め尽くされた。
「笑えないな、規模がおかしい、常識の外の数だ」
「こちらの陣営にだって規格外の人間なら何人かいますよ」
「まぁ、確かにな…。そろそろ有効射程内か?スノリ、奴らに挨拶してやれ」
ギュルヴィが肩をすくめるのを横目に、アキは指示を出した。少女が静かに前に出る。そのまま砦の縁まで歩き、大きく息を吸い込んだ。魔法が紡がれる。それは彼女だけに与えられた祝福の魔法、神から受け継ぎし常世を超えるもの。神の魔法。
スノリの言葉を紡ぎ終えると、目も眩む閃光と大気を震わす爆炎が、蠢く魔物の一角を吹き飛ばした。
「開戦だ」
それを皮切りに、砦から雨のように矢が飛び出した。魔術師の炎弾が敵を薙ぎ払う。おぞましい魔物の断末魔の声が聞こえてくる。
しかし、進軍は止まらない。斃れた死体を踏みつけに進み続ける。軍は砦の前まで難なくたどり着いた。小鬼が城壁をよじ登る。まるで巨大な一つの生き物のように、白い壁が黒く染まっていく。彼らに梯は必要なかった。
「上にあがらせるな!叩き落とせ!」
近くの指揮官が叫んだ。兵士達は鬨の声をあげ、無尽蔵に現れる敵に武器を振り下ろしていく。小鬼一匹と人間の兵士一人では、勝敗は人に分がある。迫り来る数は単純な力関係を覆す。怒号に悲鳴、流血、そして死。そこは地獄そのものだった。
「押し返せ!小鬼程度、何匹いようと我々の敵ではないぞ!」
戦乱の中で、輝きを放つのは名うての『名前付き』達だ。群れを紙切れのように吹き飛ばし、疲弊した味方に希望を与える。夥しい数の敵を押さえ込んでいるのは、彼らの奮闘のおかげだった。
小鬼の濁流だけの攻めは数時間に及んだ。太陽が地平線の彼方へ沈み、恐ろしい夜がやってくる。篝火が焚かれ、砦を照らした。
「他の場所の様子はどうだ?」
「全ての城砦群は健在です。上位種は未だに現れていません。こちら側の被害は想定範囲内ですね」
セブが忙しそうに書類を読みながら言った。アキは指揮所の机に腰かけた。時折、爆発音共に部屋が震える。外では休むことない戦いが続いていた。
「お前も暇そうだな」
壁にもたれかかるジークフリートが退屈そうにしてアキに声をかけた。作戦上での彼の役割は、手の付けられぬ上位種の処理と敵の総大将たる巨人殺しだ。いわば勝利の鍵になる人物である。
「いつになったら俺の出番が来るんだ?」
「手が空いてるのなら、防衛に出てもいいんだぞ」
「ふん、小鬼なぞ暇つぶしにもならん」
ジークフリートが退屈そうに言った。戦いは長期戦になる。それぞれに役割が与えられていた。アキもまた、来たるべき時までは戦線に立たなくてもよかった。今頃、『二対の雫』はどこかの壁の上で指揮をとっているだろう。『魔術詩人』は中央塔で戦況の監視.『祝福の子』は奥の部屋で寝ているだろう。神の魔法は数日に一度しか使えないそうだ。世界との接続が悪くなるとか。
「俺は一回りして来るよ」
アキは指揮所を出た。遠くから誰かの叫び声が聞こえた。戦争では命が簡単に失われる。
今日は眠れそうになかった。




